「力士になる」から野球の道へ…中日・井上監督が中3で迎えた人生最初の転機 躍動する享栄・近藤と鹿児島商旋風
◇渋谷真コラム・龍の背に乗って 井上一樹物語「1」 中日・井上一樹監督(53)に、チーム再建の任が託された。決してエリート街道を歩んできたわけではない竜将の人生には、いくつかの転機があった。出会いを逃さず、運命を切り開いてきた男。その源流を4回連載で振り返る。 井上の人生最初の転機は1986年。中学3年の夏休みに上京し、大相撲の井筒部屋を訪れた。当時は現役力士だった逆鉾と寺尾ははとこにあたり、ごちそうに東京見物にと歓待された。 ただの旅行ではなく、角界入りを前提とした部屋見学。「もともと、そうなるものだと思っていた」。井上の気持ちも固まった。「力士になる」。父にも学校の教師にも一度はそう伝えた。しかし、腹の底でくすぶっていた野球への未練に火が付いたのは、帰郷した後に何げなくつけたテレビに映っていた左投手だった。 「野球もしたい。そう思っていたところに夏の甲子園。画面には享栄の近藤真市ですよ。三振取ったら打者をにらみつけて、ものすごくかっこよく見えた。あぁ、こんな投手になりたいってね」 角界入りで決まっていた進路は土俵の中央に戻っていた。マゲか。はたまた、丸刈りか。迷った末に高校野球が相撲を寄り切ったのは、9月のことだった。近藤が躍動した夏の甲子園で鹿児島商を4強に導いた塩瀬重輝が、井上をスカウトに学校までやってきたのだ。 「桜島打線って呼ばれて、そりゃ大変なフィーバーでした。僕もかじりついて見ていたし。その監督さんが直々に来たんだから」 近藤が投げていなかったら。甲子園で鹿児島商が旋風を起こしていなかったら。塩瀬に説得されていなかったら…。今ごろは監督ではなく、親方になっていたかもしれない。しかし、入部してみたら、同期は150人。「ここは軍隊か」と思うほど上下関係も厳しかった。 「在学中にピッチングやバッティングで塩瀬監督にこれを教わったという記憶はないんです。学んだのは選手のやる気を引き出すための、指導者としての情熱。そして、絶対に最後まで諦めない心です」 進路を変えて、厳しい練習に耐えた井上は、その情熱にほだされた一人である。熱い言葉で選手の心を揺さぶっていく井上の源流は間違いなく塩瀬にある。15歳で定まった野球への道。その3年後、新たな転機が待っていた。のちに「名古屋の父」と慕う男との出会いである。=敬称略
中日スポーツ