家族とは離れ離れ、通院は片道1時間… 原発被災地で暮らす80歳「最期の時はふるさとで」 #知り続ける
株式会社福島放送
福島第一原発で長年働いていた経験がある、福島県大熊町の末永正明さん(80)。自宅がある大川原地区の避難指示解除に合わせて、自宅に一人で戻った。長年連れ添った妻は放射能への不安を拭いきれないと言い、離れ離れで暮らしている。避難指示が解除された地域には、同じように一人で戻った高齢者も多い一方、医療体制は避難前の状態に戻っていない。病院までは片道1時間の道のりで、持病を抱えながらの生活。不便さはかつての暮らしとは比べ物にならないが、ふるさとでの暮らしは「気持ちがいい、ほっとする」と話す。原発事故を経て大きく変わった被災地で暮らす高齢者世帯の現状を追った。
広い家にポツンと一人…原発が立地するふるさとに戻った80歳
「やっぱりふるさとは違う。」 日当たりの良いリビングのソファに座り窓の外の景色を眺めながら、末永正明さん(80)は取材に応じてくれた。日課は庭の手入れで、「毎日が休みだから」と笑う。庭の木々はその言葉通りに整えられていて、避難指示が出ていた当時は荒れ放題だったという話も信じられないほどだ。 末永さんが暮らす大熊町の大川原地区は、原発事故からの復興に向けた新しい町づくりの中心に位置付けられ、町内で最も早く2019年に避難指示が解除された。役場庁舎や帰還する住民向けの公営住宅が整備され、2023年には義務教育学校と認定こども園の新しい校舎も完成するなど、整然とした新しい町並みが広がる。その大川原地区にあっても、末永さんの家は震災と原発事故が起きる前から変わっていない。13年前のあの日も、末永さんはこの家のこのリビングで、激しい揺れに見舞われた。完成してから1年ほどしか経っていなかった「終の棲家」は幸いにも大きな被害を免れたが、隣近所では家の塀が倒れ、瓦が散乱していた。夜になって帰宅した息子からは「原発がおかしい」と聞かされたが、「そんなはずはない」と思わざるを得なかった。
信じ込んでいた安全神話「まさか原発が」
地元の高校を卒業後、神奈川県で養鶏の仕事に就いたが、体調を崩した母親を支えるため1968年に町へ戻った。この頃、町内で進められていたのが、福島第一原子力発電所の建設工事だった。 「若者は出稼ぎに行くのが当たり前だったが、原発に行けば仕事があった」 末永さんも、原発の建設現場で朝から晩まで安全管理などに従事するようになっていた。28歳の時、隣の浪江町出身のとし江さんと見合い結婚したが、平日は会社の寮住まいで休みもほとんど取れないほどの働き詰めの日々。原発での仕事は早期退職する55歳まで続き、「原発は安全だ」と信じ抜いていたが、その安全神話は原発事故により脆くも崩れ去った。 親戚を頼るなどして、避難先を南相馬市から福島市、さらに仙台市へと移す間に、住み慣れたふるさとは「警戒区域」などと呼ばれ、自由に立ち入ることすら出来なくなっていた。一時帰宅の許可を得て自宅の様子を見に戻ると、真新しかった家は庭をイノシシに荒らされ草木は伸び放題。窓ガラスは割られ、泥棒に入られていた。再び暮らせるようになるにはどれだけの時間と労力がかかるのか分からなかったが、逆に奮い立った。 「早く家に戻りたい、いつかふるさとに戻りたいという気持ちは変わらなかった。」 除染や内装のリフォームなどを経て、帰還に向けた準備のための宿泊、いわゆる準備宿泊で自宅に戻ったのは2018年6月のことだった。