篠山紀信、大いに語る【後編:平成~次代】ネットで味わえない体感する写真へ
デジタル時代にも写真集がなくならない理由
最新作『premiere(プルミエール)』は、モデルである3人の女性のほうから「篠山さんに撮ってほしい」とヌード覚悟のオファーがあった。 「それも時代なんでしょうね。昔は考えられなかった」 時代といえば、写真自体もデジタル時代に入って人々の楽しみ方が変わってきた面がある。フィルムの時代には撮った写真はプリントするかスライドにして楽しむことが多かったが、平成になってデジタルカメラやネットが急速に普及すると、プリントせずパソコンやスマホに保存し画面で鑑賞したり、SNSで共有したり、ということが主流になりつつある。 「写真が発明されて200年経っていないんです。その中で一番大きな変革は、やっぱりデジタルの誕生でしょう。フィルムや現像など、化学だった写真が、電気信号の世界になった。撮ったものを瞬時に世界中に送ることができる。印刷媒体としての新聞や週刊誌もネットに変わってしまうんじゃないかって状況になっていますよね。そりゃ人間は、ネットみたいな便利なものに走りますよ。じゃあ写真集とか、印刷されたものがすべてなくなるのか? これはね、特に写真集はなくなることはない」 篠山はきっぱり言うと、『premiere』の一冊を手にした。 「これ、物体ですよね。持っている、という所有感がある。本棚に並べることもできれば、抱いて寝ることもできる。マテリアルとして、ここに存在する。ページを繰っていく感覚は、ネットでは味わえない。ネットにあるのは記憶です。記憶は、どんどん消えていってしまう。物としてある、ということがすごく大きい。自分の中に、ちゃんとイメージを存続、保持したい。そういう気持ちがある限り、この物体はなくならないってことですよ」
鑑賞から体感へ 写真が写真として生きる道
そしてもう一つ、篠山は写真の可能性を提示する。昨秋から3月10日まで『premiere ラ・リューシュの館』の舞台、山梨県北杜市の清春芸術村にある「光の美術館」で写真展『光の情事』を開いたのだ。当初は2月24日閉幕の予定だったが、好評のため会期延長となった。 「安藤忠雄さん設計の美術館ですが、電球などの人工照明が1個もなく、夜になると暗くて何も見えない。昼間、自然の光の中で作品と会うんです。四季や天気、陽の動きによって刻一刻と変化する光の中で出会った作品は、それしかない。これはある種、快感なんですね。僕はここを展覧会場にして、ここで撮った作品を見せる。そこには自分の体感がある。そうした写真との出会い方は、ネットではできない。写真が写真として生きて行く道っていうのは、これからもちゃんと、ずっとあると思いますね」 24日には、都内でモデルとともに『premiere』の出版イベントを控えるが、篠山紀信平成最後の写真集を通して、写真の未来を想像するのも一興だ。 (取材・文・撮影:志和浩司)