父にはパチンコに、母には夜の仕事に連れて行かれ…4歳で児童養護施設に入所した少年が語った幼児期の記憶
■両親が帰ってこず、ずっと泣きながら待っていた記憶 義治さん(35歳)は、両親の離婚後、母親と暮らすが養育が困難となり、4歳のときに児童養護施設に入所。高校卒業まで生活。 両親が帰ってこず、ずっと泣きながら待っていた記憶がある。父親のスクーターの前に乗ってパチンコによく連れていかれ、床に玉が転がってたのを覚えている。両親は頻繁にけんかし、寝たふりをして言い合っているのを聞いていた記憶がある。父親は酒をよく飲み、怖かった。 両親が別れた後、母親と東京に出てきてからも、母親がずっと父親のことを悪く言い続けるので、そういうイメージしかない。でも実際に父親から殴られたりはしなかった。母親は夜の仕事に義治さんを一緒に連れていき、グラスにポッキーが入っているのを見て不思議に思った記憶がある。母親が義治さんを育てることが次第に困難となり、児童養護施設で生活するようになった。 ■父親の金の使い方が荒く、水道、電気、ガスを止められた 浩二さん(23歳)、大学4年生。母親について記憶にあるのは、家を出ていくときの姿だけである。その後父親は覚醒剤で捕まり、父方の親族の家を転々とする生活で、父親とはほとんど一緒に生活しなかった。親族は朝鮮学校の教育を受けていたため、日本の教育を受けさせたくないという思いが強く、小学校には通っていなかった。 中学1年生のときに祖父がやっていた造園会社が倒産し、そこで働いていた父親が失業した。その後父親は就職せず、生活保護を受給しながら父と妹の3人で生活するようになった。父親の金の使い方が荒く、水道、電気、ガスを全部止められて、父親に公園の水をくんでこいと言われ、カセットコンロでお湯を沸かしてお風呂に入る生活であった。ご飯も食べられず、無人販売の野菜を盗んだり、父親から友達やおばさんから金を借りてこいと言われたりしたこともあった。
■「子どもが出入りしない場所」に身を置く気持ち 中学校では居場所もないし、勉強もついていけないので、中学1年生の頃から学校へは行かなくなった。父親が夕方から深夜までお酒を飲んでいて、正座して父親の隣に座っていなければならなかった。その間はご飯も食べられなかったし、トイレにも行けず、ただそこに座って愚痴を聞かされるとか、殴られるとか、そういう生活がずっと続いていた。 父親が寝静まってから残った物で飢えをしのぐという生活であった。 義治さんは幼少期、母親には夜の仕事に、父親にはパチンコに連れていかれた。通常子どもが出入りしないこういった場に身を置いていたときの気持ちを話すことはなかった。また両親の言い合いを寝たふりをして聞くというのは、子どもにとっては過酷な体験であろう。 浩二さんは中学の頃から父親の酒の相手をさせられ、暴力も受けてきた。親とケア役割が逆転し、感情交流を通した依存体験も十分になされなかったであろう。 ■裕福な暮らしのなか、とにかく父が怖かった 美和さん(21歳)は、両親の離婚後、父親と生活。高校1年生のときに、父親の身体的、心理的な虐待により里親家庭に一時保護委託され、その後児童養護施設で19歳まで生活。 幼少期から感情の起伏が激しい父親を怒らせないようにとつねに気遣っていた。父親が一番厳しかったのはご飯を食べるときで、こぼしてしまったりすると、「出ていけ」と言われてレストランの外に立たされた。母親も父親の顔色をうかがって生きているような感じであった。暮らしは結構裕福で、クリスマスには家の近くのホテルに部屋を取ってパーティーをしたりしていた。学校もずっと私学で、語学ができるようにと幼稚園はインターナショナルスクールに通っていた。でも、そんな裕福な暮らしを楽しいと感じたことはなく、とにかく父が怖かった。 不思議なことに、母親のことを全然覚えていなかった。父親に反抗しない母親が好きではなく、なんで子どもを守らないんだろうと思っていた。母親は突然いなくなったりもしていた。ある日買い物に行ってくると言って出かけたきり戻ってこなくなった。自殺をほのめかすような話もしていた。今思えば、父親の女性関係とかでいろいろと溜まっていたんだろうと思っているが、当時は身勝手な人だなと思っていた。今は母親と関係が途絶えている。