《ブラジル》特別寄稿=誰も書かなかった日伯音楽交流史(25)=坂尾英矩=「ブラジルのベニー・グッドマン」当地ジャズ史に名を遺す醍醐麻沙夫
サンパウロのジャズ史にも名を遺す
彼がブラジルへ着いた頃は日系社会が日本から芸能人を呼ぶブームの始まりだったから、多くの有名歌手の伴奏オーケストラにはトミーの姿が必ず見られた。彼の最後の花のステージは1970年の美空ひばりショーで、サンパウロの一流ミュージシャンを集めたビッグバンドは日本からの同行4人の他日本人は私とトミー二人だけだったが、私たち二人共ハマっ子で、しかもひばりさんの実家魚屋を知っていたのだから彼女は驚いていた。 訪伯芸能人の伴奏以外にトミーはジャズマンとしてサンパウロのジャズファンやミュージシャンの間で彼が奏でるベニー・グッドマンのようなスイング感が知られるようになっていた。サンパウロのデキシーランド・ジャズ界のリーダー的存在だった元関西学院大学の名トランぺッター右近雅夫氏は勿論、トミーとテレビや大学祭などで共演している。右近さんのトミー評は「広瀬さん(トミー)とやると気持ち良く乗れますわ」だった。 また東京でジャズマンだったバイブの久晃一クインテットではクラリネットを主体としたので、この編成のバンドがないブラジルではマスコミ紙上で注目され、フォーリャ・デ・サンパウロ紙主催のジャズ大会では受賞している。このトミーのジャズ界での活躍は日系社会で知られていないがサンパウロのジャズ史『Jazz na Garoa』(1966年)にはトミーの名が登場してくる。著者Edoardo Vidossichはトミーを「ブラジルのベニー・グッドマン」と呼んで賞賛していた。 では何故日本人のジャズがそんなに好まれたのかと言うと、ブラジルには優秀なジャズマンは大勢いるが、そのほとんどはビバップ流行期から入ったモダン派だから、それ以前の古いスイング感がよく出ないのだ。 一方、日本人は終戦後アメリカの洗礼を受けているから、あの頃のスイング感が体に馴染んでいるのではないかと思う。久晃一氏は日本人街の小さなアメカン横町でライブバー「チェリー」を経営してトミーも演奏していたが、宣伝もしないのに米国婦人記者、アメリカ総領事館員、欧米商社駐在員などが来るようになったのは、この年代の欧米人はジャズが本当に良かったスイング時代のファンだから、ブラジルであまり聴けない「チェリー」のサウンドに、くちコミで客が集まったのだろう。 ニューヨークで有名となったブラジル人ピアニスト、ドン・サルバドールがサンパウロ州の田舎から出てきて仕事場を探している時に、アメカン横町から流れるバイブとクラのスイングビートに慰められた、と後日私に語った。また、米国婦人記者がトミーに「あなたはベニー・グッドマンそっくりね」と言ったのは当時の事情を代表する証しである。 醍醐氏葬儀直後の日曜日、私は現在「東洋人街」と呼ばれる日系人中心地ガルボン・ブエノ街を通ったが、人込みの波にもまれてなかなか前へ進めなかった。それは、鳥居アーチや提灯型街灯が設置された以後、当局の後援で地下鉄リベルダーデ駅名にジャポンが追記されて新店舗が増え、一般ブラジル人でにぎわう観光名所となったからである。 ここは醍醐氏着伯の翌日に食事を共にした場所なので、私はあの日の事を思い出した。当時この辺りは邦画常設館の行列以外は閑静な町並みだったのである。 トミーは焼きそばを食べながら「ここは移民の郷愁の町なんですね。なんだかうら寂しいなぁ。横浜の南京町みたいに魅力アップしてサンパウロの観光名所にすればよいのにね」と言った。この醍醐氏の日本人街に対する第一印象「南京町にすればよいのに」とは、彼がハマっ子だからこそ出た表現だったなぁ、と私は人込みでもみくちゃになりながら思い出して、「また一人生粋のハマっ子が消えてしまった」という一抹の淋しさで胸を絞めつけられたのである。
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