《ブラジル》特別寄稿=誰も書かなかった日伯音楽交流史(25)=坂尾英矩=「ブラジルのベニー・グッドマン」当地ジャズ史に名を遺す醍醐麻沙夫
一流のクラリネットやサキソフォーン奏者
醍醐氏が執筆業以外にプロとして最も長い間従事したのはポピュラー・ミュージックのクラリネットとサキソフォーン奏者だった。 話はさかのぼるが私の母校、横浜翠嵐高校へ入学してきた醍醐氏と知り合ったのは放課後の軽音楽部練習所で、ジャズ好きが集まって遊んでいた時だった。彼はコルネットを持ってきて「メンバーに入れてください」と言ったのである。 学生コンボのリーダーは後にレコード業界の名編曲家となった小谷充、トランペットも日本有数のニューハード・オーケストラの羽鳥幸次というベストメンバーがいたので、小谷リーダーが「テナーサックスだったらよかったのになあ」とこぼしたとたん醍醐氏は「では持ち代えてみます。少し時間を下さい」と言って空爆を逃れた学校の楽器を借りて行った。 彼の家は松ヶ丘という港が見える丘の私がいつも通る道に面していたので、毎日猛練習している音が聞こえた。それから3カ月もたたないうちに彼は楽器をぶら下げ練習場へやって来て「大丈夫です」と言ったのである。テナーサックスのアドリブ(即興演奏)が始まると小谷リーダーはOKのサインを出して「これから君の名はトミーだよ」と命名した。 この愛称は彼に一生付き添うこととなった。 終戦直後はあらゆる物資が不足して教員の給料も少なかったから、音楽教師が夜キャバレーで演奏していても誰も文句を言わない時代だった。生徒たちの中でも力量がある者は進駐軍の日雇い人夫「プータロー」をやって、「ニコヨン」つまり240円稼いだが学校や世間からも批判の声など出なかった。ジャズバンドのアルバイトはその倍くらいもらえるし好きな事だから苦労ではない。 横浜市中心部はほとんど米軍施設となっていたからバンドの仕事に欠かすことはなかった。翠嵐高校のジャズコンボがジャズマン・トミーの初舞台となったわけである。 その後クラリネットを買って、当時のスイング王、ベニー・グッドマンに凝りだしてから色々なステージに呼ばれるようになった。静岡市公会堂で催された東京六大学ジャズ・フェスティバルの際に、トミーは日本大学ジャズバンドの欠員の肩代わりとして出演したが、大会総出場者の中で只一人の高校生だった。 トミーはブラジルへ渡航する1960年まで数多くのバンドで演奏したが、有名なスマイリー小原とスカイライナーズでバリトンサックスを受け持ったのがハイライトとなった。しかし何と言っても忘れられないシーンは、横浜港山内桟橋に投錨したオランダ軍艦内ジャズ大会だった。トミーのアドリブ・ソロパートが終わるたびに水兵たちが総立ちとなって拍手喝采したのである。
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