1878年5月、日本にやってきたイギリス人が「日本の姿を見て、最初に感動したこと」
日本のなにに感動するのか?
日本はいったい、世界のなかでどのような立ち位置を占めているのか。 世界情勢が混乱するなか、こうした問題について考える機会が増えた人も多いかもしれません。 【写真】イザベラ・バードは、こんな顔をしていた…! 日本が世界に占める位置を、歴史的な視点をもって考えるうえで非常に役に立つのが、『イザベラ・バードの日本紀行』という本です。 イザベラ・バードは、1831年生まれのイギリス人。オーストラリアや朝鮮などさまざまな国を旅し、旅行作家となりました。 彼女は1878年、47歳のときに日本を訪れています。北海道をはじめ、いくつかの土地を旅しますが、その様子をあざやかにつづったのが、この『イザベラ・バードの日本紀行』なのです。 19世紀の後半、日本はどのような姿をしていたのか、それはイギリスという「文明国」「先進国」からやってきた女性の目にはどのように映ったのか、そこからは、明治日本とイギリスのどのような関係が見えるのか……本書はさまざまなことをおしえてくれます。 たとえば、バードが日本に着き、船でゆっくりと「江戸湾」を北上する場面。バードが見た風景と、彼女の心の動きは、非常に印象的です。同書より引用します(読みやすさのため、改行を編集しています)。 〈日本の海岸線はほかよりずっと魅力的だとはいえ、その色にも形にも意表を突くところはまったくありませんでした。木々に覆われた、切れ込みの深い山々が水辺からきれぎれにそびえ立ち、軒の深い灰色の人家が谷間の口のあたりに集まっています。そしてイギリスの芝生のような鮮やかな緑の棚田が、上方に鬱蒼とつづく森のあいだをすばらしい高さまで上がっているのです。 海沿いの人口の多さはとても印象的で、いたるところにある入江にも漁船がいっぱいいます。五時間のうちにすれちがった漁船の数は何百ではきかず、何千隻にもなります。海岸線も海も色が淡く、船も淡い色をしています。船体が白木で、帆は純白のズック地なのです。 ときおり船尾の高い帆掛け船が幽霊船のようにふらふらと通りすぎていき、シティ・オブ・トーキョー号は三角形状の群れになった四角い白帆の漁船団を粉砕してしまわないよう、スピードを下げ、なにもかもがどんよりと灰色で単調ななかを何時間も航行しつづけました。 甲板じゅうで歓声があがっていたものの、わたしにはずっと探しても富士山が見えなかったのですが、ふと陸ではなく空を見上げると、予想していたよりはるか高いところに、てっぺんを切った純白の巨大な円錐が見えました。海抜一万三〇八〇フィート[約三九八七メートル]のこの山はとても淡いブルーの空を背に、海面の高さからとても青白い、光り輝くカーブを描いてそびえ立ち、その麓も中腹も淡いグレーのもやにかすんでいます。それはすばらしい幻想のような眺めで、いかにも幻想らしくまもなく消えてしまいました。〉 〈やはり円錐形の雪山であるトリスタン・ダクーナ山はべつとして、これほどその高さと威容を損なうものが付近にも遠くにもなにひとつない、孤高の山は見たことがありません。日本人にとっては聖なる山であり、飽くことなく芸術作品の題材とするほど大切にしているのもふしぎはありません。最初目にしたとき、この山はほぼ五〇マイル[約八〇キロ]のところにありました。 空気も海も動きがなく、もやは静止し、薄墨色の雲が青みがかった空にゆったりと浮かび、水面に映った漁船の白帆はほとんど揺れもしません。なにもかもが淡くかすかで青白く、わたしたちの船が乱れ狂う泡を残してどかどかと騒々しく進んでいくのは、眠れる東洋に乱暴に侵入するようなものでした〉 富士山の美しさが洋の東西を問わず人の心を惹きつけることが印象的なのにくわえ、「眠れる東洋に乱暴に侵入する」という表現からは、バードが日本の「開化」についてややネガティブな意見をもっているのかなと思わされ、当時の一人のイギリス人の視線として興味深いものがあります。 * さらに【つづき】「「日本はロシアの属国」「日本には奴隷制がある」…19世紀のイギリス人が、日本に抱いていた「驚きのイメージ」」の記事では、バードの同時代のイギリス人たちが、日本にたいしてどのようなイメージや偏見をもっていたのかをくわしく紹介しています。
学術文庫&選書メチエ編集部