昼間は「戦艦をやるぞ」と勇ましいが夜は「お母さん」と泣く…元特攻隊員の手記に心痛め、伝える決意
太平洋戦争中に米軍機が撮影した全国の空襲映像を次々と発掘し、注目される大分県宇佐市の市民団体「豊の国宇佐市塾」。塾頭の平田崇英さん(75)は、かつて特攻隊が配置され、多くの人が戦死した同市から、平和への思いを伝え続ける。 【写真】宇佐海軍航空隊の掩体壕前で思いを語る平田さん
1989年から、大分県宇佐市の「宇佐海軍航空隊」について調べ始めた。39年に開設され、訓練を受けた搭乗員が、真珠湾攻撃に参加した。特攻隊の基地になると、「神風特別攻撃隊」が出撃、「人間爆弾」と呼ばれた特攻用兵器「桜花」も配備された。基地と周辺は、米軍の空襲を受け、多くの人が犠牲となった。
しかし、終戦から40年以上が過ぎ、約184ヘクタールあった基地一帯は、軍用機を守る「掩体壕」が10基残ってはいたが、滑走路など多くの設備は除かれ、のどかな田園風景に変わっていた。
「いま記録しなければ、完全に忘れられてしまう」
資料収集に奔走した。旧海軍指定だった同県別府市の料亭に足を運んでは、特攻隊員が出撃前に残した書を譲ってもらえないかと交渉したり、地元戦友会に証言を呼びかけたりした。活動が新聞やテレビで紹介されると、元特攻隊員が手記を寄せてくれるようになった。
昼間は「俺は戦艦をやるぞ」と勇ましかった若者が、夜中になると毛布をかぶって「お母さん、お母さん」と泣く。だが、それを非難するような隊員は一人もいなかった――。
「胸が痛んだ。こうした若者たちがいたことを伝えなければ」
ところが、それまで応援してくれた人たちから思いがけない反応が届く。「左翼になったのか」「右翼なら協力できない」 「誤解を招けば塾は終わるかもしれない。考えた末、証言や資料の発掘に徹して、それらをどう評価するかは、それぞれの判断に任せるという立場を取ることにした」
91年2月、宇佐市内で催した「宇佐航空隊の世界」展は思い出深いものになった。元海軍予備学生で、航空隊が舞台の小説「雲の墓標」を書いた作家阿川弘之さん(1920~2015年)が講演し、会場には満席の1200人が集まった。