“裏金”を恥じなかった田中角栄 カネをバラまき「人脈」をつくった「不法ギリギリの処世術」とは?
自民党の“裏金”問題により、政治資金のあり方に注目が集まっている。「金権政治」の代名詞である田中角栄は、政治と金をどのようにとらえていたのだろうか? 近年は再評価もされつつあり、石破茂首相も「政治の師」として仰いでいるという田中だが、彼が“裏金”についてどう考えていたのか、改めて振り返ってみたい。 ■不世出の天才・田中角栄 10年ほど前からでしょうか、昭和の政治家・田中角栄の再評価がすすみ、田中のイメージは「腐敗した金権政治家」から、「不世出の天才」に変わりつつあるようです。 田中角栄が誕生したのは大正7年(1918年)の新潟県です。「最終学歴・小学校卒の総理大臣」ともいわれる田中ですが、ある意味それは間違いで、中央工学校夜間部土木科をはじめ、さまざまな専門学校で学んだ彼は、多彩な学歴の持ち主でした。 田中は早くから社会に出た経験豊富な「叩き上げ」タイプでしたから、若い頃から老成していました。老けているわけではなく、振る舞いが大人っぽいのです。 田中はずばぬけた記憶力の持ち主でした。ゆえに博識で数字にも強く、1つ聞かれれば、3倍の情報量にして返すというトーク力は大きな魅力でした。実は若い頃、シャベリは下手な方でしたが、持ち前の頭の良さから「この人が自分に求めている答えとは何か」を逆算して返答することを覚え、苦手を克服したようです。 また、頭は良くても、「大学出のインテリ」ではない田中には、特徴的な「慎重さ」や「腰の低さ」がありました。深夜、目白の大豪邸まで自分を送り届けてくれた運転手や、下足番の書生にも「遅くまで仕事させてしまった」と、お礼の万札を握らせたそうです。 ■金をバラまくことで「人脈」を作り上げた 田中は、当時の自民党内の最大派閥・田中派を率いるボスでした。田中の絶大なる権力を支えたのは、法律の抜け穴をかいくぐって蓄えた巨万の金脈であり、それを惜しげもなくバラまいて作り上げた人脈だったのです。 東京・目白の田中邸には毎日朝から何百人単位で「陳情客」が押し寄せるのが常でしたし、田中のお膝元の新潟三区の支援者たち――「越山会」のメンバーには進学・就職の斡旋まで行いました。 支援対象は新潟三区の住民以外にも広がり、田中の事務所には「就職担当秘書」まで置かれて、2500人以上の就職を世話したそうです(田中の娘の一人、佐藤あつ子の著書『昭 田中角栄と生きた女』)。一説には1万人以上とする資料もありますが、それは田中が才能ある官僚には何百万円単位の留学費用を渡し、代議士に立候補を考えている者には、数千万円単位の援助も惜しまなかったからでしょう。 ■3人の女性と3つの家庭を築いた そんな田中は女性に対しても精力的でした。政治家として大成した後は「色恋にかまけている余裕がなくなった」といいつつも、3人の女性と3つの家庭を築き、それらの間を行き来する生活を送ったのです。 目白の大豪邸に暮らす本妻・はなは、田中とは「恋愛結婚のようなもの」だったと回想しています。おっとりした彼女とは正反対なのが、「金庫番」として重用した佐藤昭で、彼女は没落した新潟の名家出身でした。 佐藤とは、後に二人が男女の仲ではなくなり、佐藤に新しい恋人ができてからも信頼関係が続いたそうです(佐藤あつ子『昭 田中角栄と生きた女』)。さらに田中は、よくお忍びで出かけた神楽坂の芸者・辻和子とも家庭を築いています。 田中は、「金庫番」の佐藤昭に「もし、俺の昔の女が出てきたら、きちんと整理してくれよ」と言っていました。「昔の女」の世話も別の女性にやらせるとはすごい価値観ですが、佐藤によると、たとえ「昔の女の縁者」が訪ねてきても、彼らの面倒を見るのが田中の流儀なのです。 ■「裏金」を恥じなかった 自民党の要職についてからも、田中は「陳情」――つまり金をせびりに、国会期間中の大臣室まで「白のブラウスにグレーのスカート、サンダル履きで買い物籠」片手にやってきた中年女性さえ見捨てませんでした。対応した佐藤昭があとで田中に聞くと、その女性は青年時代の田中が軍隊に入るまで一緒に暮らしていた元・芸者だったそうですが……。 これらの「人助け」の財源も、彼が違法・不法ギリギリの手段で手に入れたカネでしたが、田中はそれを恥じようともしませんでした。 田中は、「政治家であろうが法律を熟知し、捕まらない範囲で金脈を作ることは(それが「裏金」とよばれる種類のカネであろうと)、一人の国民として許されうる」という処世観の持ち主だったのです。令和と昭和の間には、途方もない「常識の違い」が横たわっているものですね。
堀江宏樹