低迷期には「過去の人」扱いも『オールスター感謝祭』を機に再ブレイクした森脇健児「西川のりお師匠の言葉で57歳の今も走り続け」
「ラッキーパンチだった」と振り返る20代の絶頂期を経て、仕事が低迷した森脇健児さん。向かい風が厳しい状況のなかで、再浮上のきっかけをつかみます。今でもひとつの柱だと語る森脇さん「走る」仕事の原点は、『オールスター感謝祭』の名物企画「赤坂5丁目ミニマラソン」にありました。(全5回中の4回) 【写真】「鋼すぎるわ」50代とは思えない体で今年も赤坂を走った森脇健児さん ほか(全14枚)
■仕事に上も下もない「祭りや結婚式の司会も経験」 ── 超売れっ子だった20代を経て、30代は低迷期を経験。関西に戻られてからは、どんなふうに過ごされていたのでしょうか?
森脇さん:ゼロからやり直そうと関西に戻ったものの、テレビの仕事があるわけではありません。「これはヤバいぞ、シャレにならん」とあせりましたね。子どもが2人いて、しかも私立の学校に行くというものだから、なんとか収入を得る必要がある。グチや泣き言を言っているヒマがあったら、なんでもいいから仕事をしないと、と思っていました。でも、そういうギリギリのときに限って、結婚式やゴルフコンペ、村祭りの司会など、いろんな人から声をかけていただき、なんとか路頭に迷わずに済みましたね。
── 芸能界の第一線でスポットライトを浴びていた人が、急にゴルフコンペや村のお祭りの司会をするというのは、抵抗がなかったですか? 森脇さん:いや、それはまったくないですね。イベントの司会はタレントだから呼んでもらえるわけですし、芸能の仕事であることに変わりはありません。それに、どんな仕事であっても、必ず「おもしろさ」ってあるんです。村祭りでは、お寺のお堂で司会をしたのですが、小さな子どもからおじいちゃんおばあちゃんもいるから、幅広い年代にウケる話をしなくてはいけません。芸人として鍛えられますよね。いろんな人とふれ合えるのもすごくおもしろい。
そもそも人前に出てみんなを楽しませるこの仕事が大好きなので、舞台の大きさでプレッシャーは変われども、自分のなかで格づけをして「この規模ならこの程度でいいだろう」という考え方はしないですね。それに、手を抜く姿って、絶対にお客さんに伝わりますし、呼んでくれた人にも失礼ですからね。ただ、どんな仕事でも引き受けるぼくが、唯一やらないと決めていることがありました。