旗手怜央が語る恩師・鬼木達監督への生意気エピソード「もうサイドバックはやりたくありません」
旗手怜央の欧州フットボール日記 第32回 旗手怜央が川崎フロンターレ時代を過ごした時の鬼木達監督が、川崎を退任し鹿島アントラーズの監督に就任する。「ヨーロッパでプレーできているのは、間違いなくオニさんとの出会いがあったから」という旗手が、鬼木監督とのエピソードを教えてくれた。 【画像】旗手怜央のセルティックほか 欧州サッカー今季注目16クラブの主要フォーメーション 【鬼木監督の川崎でプレーできたのは財産】 監督として川崎フロンターレを率いた8年間で、7つのタイトルをもたらした鬼木達監督が、2024シーズンをもって退任された。 振り返ると、僕がJリーグで唯一、指導を受けた監督が、オニさん(鬼木監督)だった。 大学3年生だった2018年、初めて川崎フロンターレのキャンプに参加した時、緊張でガチガチだった自分に、「大学生活はどうだ」「キャンプで困っていることはないか」と、優しく声を掛けてくれた記憶が残っている。 その年の7月、前年にJ1リーグで初優勝していた川崎フロンターレへの加入を決めたのは、オニさんが築き上げたサッカーが魅力的に映ったからだった。 また、正式にチームに加入した2020年、フロンターレは前年にリーグ優勝を逃したことから、転換期を迎えていた。攻撃的なサッカーに加えて、さらに守備にも目を向けるようになっていて、ここでなら選手として成長できると実感したのも覚えている。 足元の技術というよりも、前への推進力を活かしてプレーする自分のような選手を、試合で起用してくれたことも含めて、監督がオニさんでよかったと、心の底から思う。 オニさんが監督だったから、フロンターレへの加入を決めたわけではないけど、オニさんが目指した、そして作り上げようとするサッカーに魅力を感じていた自分にとって、オニさんが指揮していたチームでプレーできた時間は、今も財産であり、誇りになっている。
【サイドバックで起用された思い出】 その年で思い出すのは、未経験だったサイドバックで起用されたことだろう。フロンターレでのサイドバック挑戦が、東京五輪の出場につながったのだから、なおさらだ。 あれはリーグ優勝を決めた直後の12月5日、アウェーの清水エスパルス戦(第31節)だった。試合が始まり、オニさんに呼ばれると、アップを急ぐように告げられた。交代するのは、左サイドバックのノボリさん(登里享平)だと言う。 ピッチにいるメンバーを見渡すと、守田(英正)くんもいたため、守田くんが左サイドバックを務めるのだろうと想像していたら、自分がそのまま左サイドバックで起用された。 その試合を2-2で終えると、続くサガン鳥栖戦(第32節)も、オニさんは僕を左サイドバックで先発起用した。メンバーには、(車屋)紳太郎さんもいたし、その後はノボリさんも戦列に復帰した。それでも僕は、天皇杯準決勝のブラウブリッツ秋田戦、さらに天皇杯決勝のガンバ大阪戦も左サイドバックでプレーした。 リーグ戦、天皇杯の二冠を達成した2020年を終え、新シーズンがスタートした2021年のキャンプで、僕はオニさんに言った。 「もうサイドバックはやりたくありません」 今もまだ決して経験が豊富とは言えないが、当時はまだプロ2年目の若造だ。その若手が「サイドバックをやりたくない」と、監督に進言する。今、思い返しても、くそ生意気だったと思う。 その時も、オニさんは怒るでもなく、僕を諭してくれた。 「別に、レオにノボリや紳太郎のようなプレーをしてくれとは思っていない。チームにとって必要な守備や動きさえしてくれれば、サイドバックのポジションからゴールを狙いにいってもいい」 さらに、こう言って背中を押してくれた。 「お前の色をサイドバックでも出してくれ」 2021年2月20日、シーズン開幕を告げるFUJI XEROX SUPER CUPでも僕は左サイドバックとして先発した。自分自身がどのようにサイドバックでプレーすることを受け入れたかは覚えていないが、オニさんが言ってくれた言葉に、目の前が開けたことは覚えている。 オニさんには、サイドバックとしてだけでなく、両サイドのウイング、インサイドハーフ、そしてセンターフォワードと多くのポジションで起用してもらった。 どのポジションでも、自分らしくプレーできるようになったのは、間違いなく、オニさんが言ってくれた「自分の色」を意識した効果だった。また、パスの出し手の気持ちだけでなく、受け手の気持ちも考えてパスを出せるようになったのも、サイドバックをはじめ、多くのポジションにトライさせてもらった結果だ。 そのポジションをやることで、ここにポジションを取ってくれていたら周りが助かる、ここで動き出してくれるとパスが出しやすいといったように、逆の立場で物事を見て、考えられるようになった。