ジャングルから里帰りした「飛燕」なんとパイロット判明! 知られざる“エース”と新戦闘機ミュージアムとの「奇跡の縁」
原寸大「飛燕」岡山で展示スタート
2024年4月26日、田園と緑が広がる岡山県浅口市金光町に、太平洋戦争中の日本戦闘機の博物館「ドレミコレクションミュージアム」が開館し、オープニングセレモニーが行われました。ここには、ニューギニアのジャングルで発見されて里帰りした旧日本陸軍の三式戦闘機「飛燕」一型甲(キ61-I甲)の実機と共に、新たに製作された原寸大模型が展示され、話題になっています。 【一見の価値あり!】往時の塗装も残っている「里帰り飛燕」じっくり見る(写真) 三式戦闘機「飛燕」は太平洋戦争の中頃、万能な中型戦闘機として川崎航空機の土井武夫技師のチームで設計・開発され、1943(昭和18)年に制式化されました。その最大の特徴は、日本の戦闘機としては珍しい液冷式エンジンを搭載していた点です。 当時の日本の戦闘機のほとんどは、星形の空冷エンジンを搭載していたため、機首が円筒状のものばかりでした。そういったなか、飛燕は機首が尖っており、いうなればスマートな外観を誇っていました。 搭載していたのは、国産の「ハ40」型エンジンです。これは、当時同盟国であったドイツのダイムラー・ベンツ社が開発した液冷式倒立V型のDB601A型エンジン(1050馬力)を川崎航空機がライセンス生産したものでした。 同エンジンはドイツのメッサーシュミットBf-109E戦闘機に搭載されたため、ある意味で日本機らしくないスマートな機首形状と合わせて「飛燕」は、「和製メッサー」と呼ばれたりもします。 しかし、実はBf-109Eと「飛燕」を比べた場合、上昇力も旋回性能も全て後者の方が優れていました。また「飛燕」は、空力的にも優れた機体設計により最高速度は590km/hを記録するなど優秀で、わずか3年ほどしか生産されなかったものの、各型合計で3000機以上が造られ、東南アジアの南方戦線や本土防空戦などで多用されています。
ジャングルから80年ぶりの帰還
実は、このたび展示が始まった「飛燕」の原寸大模型は、茨城県小美玉市にある日本立体(齊藤裕行社長)の工場において構想1年、製作期間2年の歳月をかけて生み出されたものですが、その形状を再現するのに大きく貢献したのが、もうひとつの目玉展示といえる「飛燕」の実機でした。 この「飛燕」は、戦後にパプアニューギニアのジャングルで発見された機体です。当初はオーストラリアのコレクターが所有していましたが、2017(平成29)年にオークションへ出品。ここで、岡山県倉敷市でオートバイ部品・用品を製造、販売するドレミコレクションの武 浩社長が入手します。 こうして、長らく日本から遠く離れた地にあった「飛燕」の日本への里帰りが実現するに至りました。 当初、武社長は後世に伝える歴史の証しや貴重な産業遺産という観点から、同機を復元しようと考えていたそう。ただ、それには膨大な時間が掛かることが判明します。さらに、倉敷市で保管していた際に、「飛燕」を見学しに訪れた当時の工員の人や関係者らが、同機を見て感動する姿を目の当たりにしたことで、彼らの残された時間を考えるようになります。 その結果、実機を復元するのではなく、むしろ見学者が理解しやすいようにする目的で「飛燕」の金属製原寸大模型を作ることに方針を転換。完成後は、新たな施設でその両方を展示することに決めたのです。 こうした武社長の強い想いが、すでに大戦機の模型製作を手掛けていた日本立体の齊藤社長をも動かしました。こうして、晴れて「飛燕」原寸大模型の完成へと至ったのです。なお、このレプリカを製作する過程で実機は詳しく採寸され、またその出自も調査されました。 その結果、この機体はニューギニアのウエワク基地に展開した日本陸軍航空隊の第14飛行団第68戦隊所属の「飛燕」だということが判明します。しかも、エンジン補修の状況や当時の記録などから、第2中隊所属の垂井光義中尉(当時)が搭乗した177号機であることも明らかになりました。