現役時代の苦労の差が監督としての接し方に表れる。江本孟紀が分析する元中日・立浪和義と日ハム・新庄剛志との違い
新庄監督はポジション以外での起用も考えた
「郡司は移籍したから活躍することができた」 「中日にいたら、今ごろまだ二軍暮らしが続いていたかもしれない」 そんな揶揄をされていたものだが、郡司を活躍させたことで、立浪監督と新庄監督の違いが如実に表れた。 立浪監督は「捕手として郡司として通用するかどうか」を見ていたが、新庄監督は「郡司は捕手以外のポジションで活躍できるのか」という視点で判断していた。 実際、2024年シーズンは春季キャンプから郡司をサードで起用した。 期待していた清宮幸太郎が自主トレ中の負傷でサードができなくなったことから、郡司自ら挑戦を熱望していたのがその理由だが、新庄監督は彼のアピールを否定することなく、「サードをやってみようか」と提案した。 その結果、春季キャンプ、さらにはオープン戦でも結果を出し、開幕5戦目のソフトバンク戦で第1号の本塁打を放つと、その後はレギュラーの座を射止めた。 彼がブレイクした一方でこんなことを考える。 もし郡司が中日にいたままだったらどうなっていただろうか。 一つ言えるのは、立浪監督にサードで起用するという発想はなかった―。これは断言できる。
現役時代に屈辱を味わった新庄監督
新庄監督と立浪監督は、3年目になって両者の「監督の差」が浮き彫りになったが、なぜ新庄は監督として成果を出すことができたのか。 私は大きく二つの理由があると見ている。 一つは、同じように現役引退後コーチ経験がないまま監督に就任した広島の新井(貴浩)監督と同様に、「現役時代に味わった苦労の差」によるところが大きい。 たしかに新庄監督は立浪監督と同様、現役引退後はコーチとして一度もユニフォームを着た経験がない。彼が引退したのは2006年であることを考えると、現場へのブランクは立浪監督よりも3年長い。 15年もの間、日本ハムを除く11球団から指導者としてのオファーがなかったところに、突如として日本ハムからの監督就任要請。世間も驚いただろうが、球界の人間もあっと言わせるには十分すぎるほどのインパクトがあった。 一方で、新庄監督の現役時代に目を向けると、決してエリートだったわけではないことがわかる。 1989年のドラフト5位で阪神に入団してから2年間は二軍でじっくり鍛えられ、3年目となる92年にメキメキと頭角を現してきた。 そのルックスと奇想天外な考え方は、それまでの阪神にはないキャラクターとして多くの阪神ファンの心をつかみ、一躍スターダムにのし上がっていった。