道長にとって「好都合」な存在だった藤原公季
9月22日(日)放送の『光る君へ』第36回「待ち望まれた日」では、藤原道長(ふじわらのみちなが/柄本佑)の娘であり、中宮の藤原彰子(しょうし/あきこ/見上愛)の懐妊から出産までの様子が描かれた。女房の藤式部(とうしきぶ/のちの紫式部/吉高由里子)は、指南役や話し相手として厚く信頼され、ことあるごとに彰子に呼び出されるようになっていた。 ■中宮懐妊がもたらしたさまざまな思惑 藤原道長の娘であり、中宮の藤原彰子が懐妊したとの知らせが宮中を駆け巡った。貴族たちは、生まれてくる子が皇子か、皇女かに関心を寄せた。 出産を間近に控えた彰子は、一時的に内裏を退いて土御門殿に里帰りすることとなった。藤式部をはじめとした女房たちも随行する。この頃になると、藤式部は漢籍の指南や話し相手として彰子にことのほか信頼され、より一層、距離が縮まっていた。 いよいよ出産の日。呼び寄せられた多くの高僧の読経の声が土御門殿に響き渡った。道長や藤式部ら女房らも声を合わせ、彰子の無事の出産を祈った。その結果、道長に憎しみを募らせる藤原伊周(三浦翔平)の激しい呪詛は、かろうじて祓われた。こうして生まれたのは皇子。敦成(あつひら)親王の誕生の瞬間だった。 その後、敦成親王のための五十日(いか)の儀が催された。宴のなか、道長に請われて、藤式部は歌を詠む。これを受け、道長も合わせて歌を詠んだ様子を見て、道長の嫡妻・源倫子(みなもとのともこ/りんし/黒木華)は、何事かに気付いた素振りで席を立った。 その場にいた、倫子に仕える赤染衛門(あかぞめえもん/凰稀かなめ)もまた、道長と藤式部がただならぬ関係ではないかとの疑いが、確信に変わりつつあったのだった。 ■皇族同然に育てられ公家の名門として存続 藤原公季(きんすえ)は、957(天徳元)年に藤原師輔(もろすけ)の第十一男として生まれた(十二男とする説もある)。母は、醍醐天皇の皇女である康子(やすこ)内親王。師輔は藤原道長の祖父にあたる。 生まれてまもなく、母の康子内親王を亡くした。さらに、父の師輔も4歳の頃に死去。公季は腹違いの姉である安子に引き取られ、養育されたという(『大鏡』)。安子が村上天皇の中宮だったため、公季は内裏で育てられることとなった。