<私の恩人>奇才・マキタスポーツを開花させた「浅草キッド」
キッドさんに会って、なんでしょうかね、物の見方が一面的じゃなくなったというか。それまでの自分は、良くも悪くも、純粋で過激でした。 当時言われて、今でもすごく残っているのが「お前らが芸人として生きていくにあたって“飯が食える”というのはすごく重要なことなんだよ」という玉さんの言葉です。 当時の僕は、飯が食えるかどうかというよりも、自分がやりたいことがやれているかどうか。その実感の方を重視するというか。さらには“やりたいことをやってる感”のまま芸人生活を押し切れるんじゃないかという幻想もありました。飯なんて食えなくても、いかに過激なこと、とがったことができているか。それに手を染めているか。そうしている自分にうっとりとしている感覚。 また、その頃はいわゆるボキャブラブームもありまして、アイドル的に、人気者的にテレビに出ている人たちを見て「オレは違うんだ」ということを、ことさら強く打ち出していた時でもあった。お笑い界の過激派。テロリストの恍惚(こうこつ)。そんな気分に浸っていた時期でもありました。 ま、今から思い直すと、そんな好き勝手をライブでやっていたのも、キッドさんがやらせてくれていたからだったんですけどね。お二人の手のひらで踊らされているにもかかわらず、いっちょ前のことを考えていた。そんな中、玉さんからふと言われたのがさっきの言葉だったんです。そのココロというのは「飯が食えているということは、人の信用を得られているということ」ということ。確かに、そのとおりなんです。
あと、当時のライブはお客さんが投票するコンテスト形式になっていたんですけど、僕は自分のお客さんを呼ぶのにすごく抵抗があって、それをやらなかった。自分のことを知らない、ニュートラルなお客さんの前でウケて優勝しないと意味がない。ただ、結果、そのライブでは、ま、芸人仲間からは評価が低い人が優勝したんです。後から聞くと、その芸人はいっぱいお客さんを呼んでいた。僕からしたら「アイツ、きたねぇなぁ…」となったんですけど、そしたら、博士が言ったんです。「いいんだよそれで。それも実力だ」って。 その時は「エッ?」と思ったけど、今にして思えば腑(ふ)に落ちるというかね。生きていくうえで、人を巻き込んでいくエネルギーを芸能人たるもの持っておかなければならない。舞台の上の芸だけじゃなく、24時間体制で芸人をやる。その人間力の必要性。そして、本当に公正なものというのが、どこまで成立しうるのか。 自分にとっての「浅草キッド」。いわば、二人とも“性格の違う兄貴”ですね。長男・水道橋博士、二男・玉袋筋太郎、年の離れた弟・マキタスポーツという感じですかね(笑)。博士は大家族の長男みたいな。戦争中じゃないですけど、戦死したお父さんに代わって家族を養うみたいなところがあると思います。オフィス北野以外でも、あらゆる芸人を見守っているというか。僕なんかは同じ事務所にいますし、家族ぐるみの付き合いもあるし、ずっと面倒を見てもらっている長兄です。 玉さんは、もっとなんて言うんですかね…。実際、年が近いというところもありますし、遊び相手。遊び相手になってくれる兄貴ですね。イメージとしては、プロレス技をかけあって遊ぶ兄弟のように、じゃれ合う中でいろいろなことを教えてくれるというか。