<私の恩人>奇才・マキタスポーツを開花させた「浅草キッド」
芸人、ミュージシャン、俳優、作家と多方面で活躍するマキタスポーツさん(47)。98年1月に28歳で芸人として本格始動し、今月23、24日には20周年記念ライブ「マキタスポーツPresents オトネタ¥7,500」(東京・コットンクラブ)を開催します。まさにオンリーワンの存在となっていますが、その骨格を作ったのは「浅草キッド」のお二人の言葉でした。 <私の恩人>ガダルカナル・タカ たけしさんは唯一の師匠!オレには弟子の人生は背負えない
人生の恩人というテーマで話すなら、出てくる名前は「浅草キッド」です。 大学を卒業して就職したものの、そこから芸人を目指して吉本興業の劇場に出入りしたり、バンド活動をしたりするようになりました。当時は漫才コンビも組んでたんですけど、解散となってしまい、相棒がいなくなってしまった。その時で、もう27歳。こりゃ、マズいなと。 慌てて、片っ端から芸能事務所に連絡して、オーディションがないか尋ねたり、入れてくれと言ったりしたんですけど、年齢的にもうダメだったんですよね。当時の流れでいうと、芸能の道を志すには歳をとりすぎていて。そこで、絶望感にさいなまれまして。「こりゃ、どうしようもねぇな…」と。 そう思っていた時に、ふとラジオを聞くと「浅草キッド」が「浅草お兄さん会」というライブの告知をしてたんです。このライブの何がよかったかというと、出場者の年齢が不問だった。それがまず僕にとってはうれしかったんですけど、ほかにも幾重にも「これだ」と思ったんです。
というのは、もともと「浅草キッド」は大好きだった。そして、ビートたけしさんも子どもの頃から大好きだった。分かりにくいかもしれませんけど、だからこそ、ずっと僕は吉本のオーディションを受けて、吉本の劇場に出入りしていたんです。 大好きで、原点とも言えるたけしさん、そして「浅草キッド」への思いがありすぎて、近づきすぎたらダメだと思っていたんです。好きだから「オフィス北野」というのは、安直というか、安易というか。そうではなく、別の事務所とか、別の道で頭角を現した時にたけしさんであるとか、キッドさんの恩恵でやってましたというのが理想だなと。だから、最初に選んだのが吉本だったんです。 ただ、経て、経て、縁の流れというか、もうどうしようもない…となった時に「浅草キッド」のラジオでライブのことを聞いた。もう、これだと。1997年12月にオーディションがありまして、幸い、そこを通過できた。そして、98年の1月24日に出場した「浅草お兄さん会」がピン芸人・マキタスポーツのデビュー日となりました。翌25日が28歳の誕生日。遅いデビューとなりましたが、紆余曲折を経て、そこに行った僕をすくい上げてくれた。これが全てだし、僕のキャリアでこれ以上の出来事はありません。 オーディションの時にお会いしたのが水道橋博士さん、玉袋筋太郎さんとの初めての接点。それまで交流はなかったんですけど、もともとお二人とも興味を持っていたプロレスや格闘技だとか、サブカルチャー全般に僕も興味を持っていたので、実際にお話を聞いてみると、一気に距離が縮まりました。仕事の先輩というよりも、関心を持っていることの先輩。まだまだ僕の知識が浅いとも思わせてもらいましたし、格闘技会場にも、ライブにも、そして飲みにもいっぱい連れて行ってもらいました。