76歳になった「ジュリー・沢田研二」は歌謡曲黄金時代の“生ける伝説”、いや極上の“生きた化石”である
■時代と一体化する生き方をやめた では、なぜ彼はそうなれたのか。 ソロとしてヒットチャートをにぎわせた時期、彼は「一等賞」という言葉を好み、実際にそれを目指し続けた。そのためには、時代と一体化しなくてはならない。80年1月1日には、その後のバブル景気を予言したかのような「TOKIO」をリリース。電飾スーツを着て、パラシュートを背負うパフォーマンスで驚かせた。 その一方で、芝居もこなし、仲の良かった志村けんとコントもやる。時代の先読みもしながら、あらゆるエンタメ的サービスに努めていたわけだ。山口百恵やピンクレディーのように数年間ならともかく、十数年も続けるのは心身がかなり疲弊することだろう。「TOKIO」の次の次のシングル「酒場でDABADA」には「急いで生きたら三十いくつ」という詞があるが、それこそ、若くして過労死もしかねない勢いだった。 そのせいか、彼の活動は80年代後半以降、ペースダウンしていく。「一等賞」にこだわり、他者と競争するようなスタンスを捨て、時代と一体化するような生き方もやめたのだ。 彼を世に出した渡辺プロダクションの創業者が亡くなるなど、芸能界でも変化が起き、ヒットチャートの中心も彼より若い人たちへと移っていた。また、派手なパフォーマンスへの志向はもろ刃の剣でもあり、80年には盟友だったバンドマン・井上堯之が音楽観の違いから去ってしまう。時代を追い過ぎたことの反省や疲れ、さらにはやりきった感も重なり、そろそろいいか、という心境に至ったのではないか。
■退廃的でワイルドという「本質」 そして何より、それまでに作り上げた素晴らしい世界は、同時に限界もある世界だった。 たとえば、75年の「時の過ぎゆくままに」。作詞者の阿久悠は、こんな秘話を明かしている。 「『堕ちる』という言葉を変えてくれと、プロダクションからいわれたが、ぼくは頑張った。堕ちる歌なのである」(「愛すべき名歌たち―私的歌謡曲史―」) 生きることに疲れ、傷ついた男女の愛を気だるく歌い上げたこのバラードは、最高傑作との呼び声が高い。 ただ、その翌年、沢田は新幹線で「いもジュリー」と呼んできた男に腹を立て、暴力沙汰となった。前出の「我が名は、ジュリー」ではこの事件のことをこう振り返っている。 「もうこれ以上の恥ずかしいことはない。親戚にも迷惑かけて。だから仕事でもってやることは、多少の恥をかいたって、あれに比べれば大したことはない。(略)割り切るようになりました」 そこから派手路線をエスカレートさせていくわけだが、そんな彼らしいもろもろが結実したのが、78年の「サムライ」であり、79年の「カサブランカ・ダンディ」だ。前者ではナチスを連想させる衣装が注目を浴びたり、後者については今年の連ドラ「不適切にもほどがある」(TBS系)で昭和的な男っぽさがネタにされたりした。 つまり、退廃的でワイルドというのが沢田最大の持ち味。それは彼の本質にハマっていただけでなく、当時の価値観や美学にもまずまず適合していた。 しかし「カサブランカ・ダンディ」が1942年公開の米国映画を引用して「あんたの時代はよかった」と懐かしむ歌だったように、近々、時代遅れにされるものでもあったのだ。沢田はスターならではの嗅覚でそれを感じ取り、自分の世界にこもることにしたのではないか。どうせ時代とズレていくなら、自分の歌いたいようにやっていこうというように。