76歳になった「ジュリー・沢田研二」は歌謡曲黄金時代の“生ける伝説”、いや極上の“生きた化石”である
生ける伝説、という言葉がある。数々のヒット曲を持ち、60年近くにわたって歌手活動を続けているジュリーこと沢田研二は、まさに歌謡史の生ける伝説と呼びたい存在だ。 【写真】ハット姿から色気をかもしだすジュリーはこちら ただ、個人的にはそれ以上にふさわしいと思う言葉も浮かぶ。生きた化石、というものだ。 生物学者のダーウィンが使い始めた言葉で、ウィキペディアには「太古に何らかの形で繁栄していたものが、今は何らかの形で細々と生き残っている」「他では失われてしまった太古の特徴をいまだに保持している」といった定義が示されている。一般的なイメージとしては、シーラカンスやカブトガニだろうが、アフリカゾウやジャイアントパンダ、ミツクリザメなども含まれていて、それなら、沢田にも十分に似合う言葉だと感じてもらえるのではないか。もっと言うなら、「極上」の生きた化石だろう。 というのも、彼は1960代後半、グループサウンズ(GS)ブームのなかで世に出て、アイドル的人気を獲得。70年代から80年代半ばにかけては、自前のバンドを従えるソロ歌手として、ヒットチャートをにぎわせた。歌唱力に加え、作品の企画性や奇抜なパフォーマンス、衣装、化粧などで独自の世界観を構築。それはのちのJポップやヴィジュアル系ロックにも影響をもたらすことになる。
■歌謡曲黄金時代の最後の帝王 ザ・タイガース時代には「NHK紅白歌合戦」にも賞レースにも縁がなかったが、ソロになってから「紅白」には17回出場。78年にはポップス歌手初となる大トリも務めた。73年には「危険なふたり」で日本歌謡大賞を、77年には「勝手にしやがれ」で日本レコード大賞と日本歌謡大賞をダブル受賞している。どちらの中継番組の歴史においても、彼が初受賞した年の視聴率が史上最高だ。 つまり、彼は歌謡史の流れを変え、いわば歌謡曲黄金時代の最後の帝王として君臨した。85年に発表された自伝「我が名は、ジュリー」には、ソロ活動を始めたころ、コンサートでのアンコールという習慣をファンに教えた話が出てくる。 「マネージャーと相談して、ちゃんと下ろさないでくださいよ、幕を、ずーっと下ろしてきて、最後のところをちょっと開けておいて、それをまたスーッと開けて、と。それを少しずつ間を長くするんですね」 そんな時代から歌い続けている人は、かなり少なくなった。GSの生き残り組では寺尾聰がいるものの、あくまで役者が本業。70年代後半、三つどもえのバトルを繰り広げた山口百恵はとっくの昔に引退したし、ピンクレディーも最近は再結成をしていない。 そんななか、沢田に続こうとしている存在に郷ひろみがいるが、両者は似て非なるもの。郷は昨年の「紅白」で、ブレイキンに挑戦。今年のパリ五輪から新種目となるスポーツをこなして、若さをアピールした。 沢田はもう、そんなことはしない。90年代に入ったころから、時代を追うことも、若づくりをすることもやめてしまった。かといって、役者やタレントに転じることもなく、もっぱら歌で生きている。その結果、生ける伝説であり、生きた化石という希少価値も持つ、特別な存在となっているわけだ。