来日したクォン・ヘヒョが語る『WALK UP』撮影の裏側とキャリア「『冬のソナタ』とホン・サンス監督との出会いが人生の転機」
「ウィットに富み、独創的で、深く感動する力作。ホン・サンス監督の最高傑作」とLos Angeles Timesが称賛した映画『WALK UP』が公開中だ。かつて監督が近くに住んでいたソウルに実在するビルを舞台にした、ホン・サンス監督28本目の作品。主演は、「ホン・サンスのペルソナ」とも言われる、クォン・ヘヒョだ。約20年前に日本で韓流ブームの火付け役となったドラマ『冬のソナタ』の、ユーモラスなキム次長として記憶している人も多いだろう。来日したクォン・ヘヒョに、インタビュー。ホン・サンス監督独特の映画術や多作で知られる自身のキャリアの信念について、たっぷりと語ってくれた。 【写真を見る】「冬のソナタ」のキム次長役でも知られるクォン・ヘヒョが、ホン・サンス作品への思いを語る ■「ホン・サンス監督と仕事をしている時はストレスがないんです。なぜなら、どんなストーリーか分からないから(笑)」 クォン・ヘヒョが扮するビョンスは、映画監督。ソウルの一角にたたずむ、4階建て+地下1階の小さなアパートを、ビョンスが長いあいだ疎遠にしていた娘と訪れるところから物語は始まる。インテリアを勉強したいという娘を、ビルのオーナーでインテリアデザイナーのヘオク(イ・ヘヨン)に紹介するためだ。1階はレストラン、2階は料理教室、3階が賃貸住宅、4階は芸術家向けのアトリエというビル。その後、この建物の住人になったビョンスは、住む階を変えるたびに異なる女性と親密な関係を結んでいく。ロケ地はこの建物のみ。ひとつの空間で撮影されたロングテイクの映像は、まるで演劇のようでもある。撮影の裏側について尋ねると、クォン・ヘヒョは、「正直に話しましょう」と前置きし、語り始めた。 「作品の始まりはいつも同じです。『僕はいつからいつまで映画を撮ろうと思っている。時間が合えば、一緒にやろう』と監督が言う。『どんなストーリーですか』と聞くと『それは僕も分からない』と(笑)。今回は、『おもしろい建物があって、そこを舞台にしたら、おもしろい話ができそうだ』というのがきっかけでした。撮影数日前に衣装合わせをします。私服で出演するので、自分の服を持っていくのですが、事前に与えられる情報は『君は監督役だ』、それだけ(笑)」。 シナリオは撮影当日の1時間前にその日に撮る分のみを俳優に渡し、アドリブなしでの演技を望むこと知られるホン・サンス監督。監督の作品に10回出演し、独自の撮影スタイルに応え続けている根底には、リスペクトと信頼があるからだと明かす。 「冗談めかして言うと、ホン・サンス監督と仕事をしている時はストレスがないんです。なぜなら、どんなストーリーか分からないから(笑)。目の前にあるセリフを完璧に覚えて、心を込めて言う。私にできるのは、それだけです。いわゆる演技の技法は必要ありません。与えられたセリフを一生懸命語り、その日その日の撮影に全力で挑んでいるうちに、ある瞬間に主人公のビョンスになっているんです」。 ビョンスは、アパートのそれぞれの階で違う顔を見せる。例えば1階では娘を気遣う一人の男、2階では酒を飲みながら自分の映画について悩む一人の男、さらに新しい女と住む男、未来の夢を見る男…という風に。そんなビョンスという人物をどう解釈したのか尋ねると、クォン・ヘヒョはこう答えた。 「どういう人物か、私は絶対に定義しません。映画の中にもこんなセリフがありますよね。ビルのオーナーがビョンスの娘に言うセリフです。『外で見せる父親の姿も本物です』と。家で娘の前で父親が見せる姿だけが真実なのではなく、すべてが本物なのです。私たちの日常は、そういうものですよね。映画では普通キャラクターを作る時に、この人物はこういう人だと決めて行動パターンを想定するのですが、人間の多様な面を見せるのがホン監督の映画のおもしろさで、それはすごくいいことだと思っています」 ■「自分では想像できない役に挑んでみたいといつも思っています」 ホン・サンス監督が大事にしているもう一つの要素は、「空間と場所」だという。「いつも監督は、『ここは興味深い空間だな。ここにどんな俳優が登場したらどんなストーリーが生まれるだろうか』と発想を膨らませていくんです。今回は特に、ロケ地のビルが主人公でした。なぜなら、この建物の構造にすごく関心を持っていて、「ここで映画を撮ったら、面白いことが起きそうだ」とオファーの連絡をもらったからです。建物の外にはほとんど出ずに、中でずっと撮影しているので、韓国で公開された時には観客が『ビルのオーナーから逃れられないラプンツェルの物語』とジョークを言ったりもしました(笑)」。 ビョンスは、「神を信じない」と言っていたはずが「神を見た」と言ったり、健康のために肉を食べなかったのに、健康になるために肉を食べるようになったり。アパートの階を上に登るたびに新たな人と関係を結び、まるで別人のように変化する。その姿は、一見コミカルなファンタジーのようでありながら、新しい出会いによって考えや趣向、時には人生そのものが変わりうる現実を鋭く描写しているようだ。他者との縁で変化するのが人生であれば、クォン・ヘヒョのキャリアにおいて、大きな転機となった一つは「冬のソナタ」(02)との出会いだったのではないか。そう問うと、大きくうなずいた。 「その通りです。2003年にNHKで『冬のソナタ』が放送されて日本に招待していただいた時、あまりの熱狂ぶりに何が起きたのか驚きましたね(笑)。日本の観客と出会う機会になり、私にとって特別な出来事となりました。いまでも日本に来ると駆けつけてくれるファンの方たちがいます。マスメディアでは、ドラマはすぐに消費されて忘れ去られます。特に韓国は、そのスピードがとても速い。でも、日本は一度好きになると気持ちが長く続き、ファンの皆さんがずっと記憶してくださる。とてもありがたく、感動的です。日本には70回以上訪れましたが、一人で静かにいられるので居心地が良いと、年を重ねるにつれて感じるようになりました。あと、日本に来て最初に飲む生ビールは最高ですね(笑)」 そして、さらなる転機として挙げたのが、ホン・サンス監督との出会いだった。 「2010年に『鉱夫画家たち』という演劇に出ているのを見た監督が、共演したムン・ソリさんを通じて連絡してくれたのです。『3人のアンヌ』以来、12年間作品をともにしています。ドラマのような大きなメディアに出ると自分が消耗するような感覚がありますが、ホン監督との仕事は癒される。私もホン監督の作品に、少しインスピレーションを与えることができたのではないかと自負しています。例えば、映画『それから』を撮影する前に監督から電話がありました。最近どんな本を読んでいるのか、どんなことを考えているのか、と。長い間いろいろ語り合ったあと、監督はこう言いました。『以前はそうじゃなかったけど、最近は君のことをよく考えている。次の映画は君と撮りたい』。それだけで十分です」。 1990年に大学路の劇場で演劇『セツアンの善人』でデビューしてから34年。映画、ドラマ、演劇などジャンルを問わずキャリアを重ねてきたクォン・ヘヒョのフィルモグラフィーには『新感染半島 ファイナル・ステージ』(20)、「寄生獣 -ザ・グレイ-」(24)のような人気の大作から『オマージュ』(21)、『福岡』(19)のようなインディペンデント系の秀作まで、幅広い作品がずらりと並ぶ。浮き沈みの激しい韓国の芸能界で一線に立ち続けるクォン・ヘヒョが、作品を選ぶ基準とは何だろうか。 「自分の役割の大きさは考えていません。『このシーンがおもしろいから、おもしろい作品になるはずだ』。これが原則です。もうひとつの原則は、先にオファーをいただいたものを優先的に選ぶということ。後から来た作品のほうが大きな役だったとしても、小さい作品の話を先にいただいた場合は、必ずそちらを選ぶ。やはり最初に声をかけてくれた人に応えるべきだと思うので、ずっとそうしてきました。それに何の意味があるのかと思われるかもしれません。でも、いろいろな人が登場して消えるショービジネスの世界に30年以上いるのは、実力よりも運が大事で、私が運に恵まれたのは、そんなことをずっと守ってきたからではないかと」 「自分がどんな役を演じたいかなんて、考えたこともない。あるとすれば、自分では想像できない役に挑んでみたいといつも思っています」と語るクォン・ヘヒョ。ホン・サンス監督の映画がおもしろいと感じるのも、どんなキャラクターなのか撮ってみないとわからないからだという。「そういう意味では、『冬のソナタ』を記憶している方にとっては、『WALK UP』の私はすごく違うように映るかもしれません。私は何も変わってないのに(笑)」 しなやかに進化するキャリアや演技の奥には、揺るぎなく燃える芯がある。『WALK UP』はそんな名優が名優たる理由を存分に目撃できる作品だ。 取材・文/桑畑優香