【あの人の東京1年目】研ナオコが原宿で過ごした10代
地方出身の著名人たちが、上京当時を振り返る連載企画「あの人の東京1年目」。1人目は、コロナ禍にスタートしたYouTubeやInstagramでの飾らない姿が話題になっている、歌手でタレントの研ナオコさん。風呂無しアパート時代に通った「ミルク(MILK)」でのエピソードから人生の師との出会いまで。上京して夢を追いかけた若き日の表現者たちは、新しい環境での挫折や苦悩をどの様に乗り越えたのか? 夢追い人たちへ贈る、明日へのヒント。 【画像】10代の頃の研ナオコ
兼業農家の3歳児、「歌手になるしかない」
私は1953年7月7日、静岡県田方郡天城湯ヶ島(現 伊豆市)生まれです。家業は100年以上続く兼業農家で、少しでも早くお金持ちになって両親を楽させてあげたかったし歌が好きだったので、物心ついた頃から「歌手になるしかない」と思っていました。 父親がミシンでよく洋服を作っていて、母も編み物が得意だったので、2人から服の作り方を教わり、ちょっとしたお出かけ着は自分で作っていました。お手本も型紙もなく、なんとなく生地を切って身体に合わせたりして。いい生地は手に入らなくて、裏地のような薄い生地を使ってワンピースをよく作っていたかな。2人いる兄も、制服の裾を自分で縫って調整したり自分なりの着こなしにこだわっていて、裁縫が得意な家族でした。 上京したのは16歳の時。両親がどうしても行けというので一旦は高校に進学しましたが、早くお金を稼ぎたくて両親に相談せずすぐに中退しました。反対を振り切って上京してしまったので、心配性の母は3ヶ月間眠れなかったそう。もう亡くなってしまったけれど、未だに心配しているんじゃないかな。
「これで売れなかったら、才能がない」
無事レコード会社が決まりデビューできたのは良いものの、全く売れなくて。日本全国にマネージャーと2人でキャンペーンに回って、喫茶店からスナックまで、飛び入りで歌わせてくれる場所を探しました。デビュー曲の「大都会のやさぐれ女」の衣装はミニスカートだったので、真冬の北海道も雪の中ミニスカートで回らなければいけないのが大変でした。2ヶ月間お風呂にも入れないくらいお金がなかったですが、元々そう簡単にはいかないと覚悟していたので諦めることはなかったですね。それに、私よりもっと大変な思いをした人もいたんじゃないかな。 今とは違って、テレビに出るのにも番組ごとにオーディションがあった時代。オーディションに落ちるなんて当たり前だから、結果が悪くても落ち込みませんでした。売れなくなっても、一から自力で這い上がる方法を学べたことは、いい勉強になりました。 17~18歳の頃に、田邊昭知さんと出会って、田辺エージェンシーに所属したのを機に、タレントとして色々なテレビに出られるようになりました。歌手としての大きな転機になったのは、22歳の時にリリースした「愚図」。新しいレコード会社での1作目の曲で、作曲の宇崎竜童さんが歌ったデモテープを聴いた時、「これで売れなかったら私には歌手としての才能がない。辞めよう」と思ったくらいです。愚図がヒットした後は、タレントとしてのキャラクター先行で売れていきました。誰も私のことを歌手だと思っていなかったと思うけど、それでも良かったんです。売れればね。