W杯予選で日本を苦しめたオーストラリア・サッカーのルーツと悩み
オーストラリアの国民的スポーツに
たとえば、1974年の西ドイツ(当時)W杯に初出場したオーストラリア代表のマンフレード・シェファー主将は、ドイツ生まれだったので、西ドイツの新聞などでも大きく取り上げられていた。 また、かつて横浜F・マリノスの監督を務めたアンジェ・ポステコグルーはアテネ生まれで、5歳の時にオーストラリアに渡ってきたギリシャ移民だった。現在のオーストラリア代表監督トニー・ポポヴィッチは、シドニー生まれのクロアチア系二世だ。 そのため、オーストラリアではイタリア系の「マルコーニ」、ギリシャ系の「シドニー・オリンピック」、ハンガリー系の「セントジョージ・ブダペスト」といった、各民族のルーツを示すような名称を持つクラブが数多くあった。 こうした状況を打破してサッカーをオーストラリアの国民的スポーツにしようというのが、2005年の改革だった。 きっかけは2002年に日本と韓国で開催されたW杯だった。ほとんど時差のない大会だったので多くのオーストラリア人がテレビで観戦し、サッカーへの関心が高まったのだ。 オーストラリア・サッカー協会は「フットボール・オーストラリア」と改称。それまでのNSLに代わって、新リーグとして「Aリーグ」を設立。新リーグでは「オリンピック」とか「ブダペスト」といった民族的なクラブ名は禁止され、都市名+愛称で統一された。 「Aリーグ」という名称は、もちろん日本での「Jリーグ」の成功を意識したものだった。
夏のフットボール
リーグ戦は春に開幕して秋に終わる、いわゆる「春秋制」を採用。ラグビー系フットボールが冬のスポーツだったので、サッカーは「夏のフットボール」として売り出された。オーストラリアは北半球とは季節が逆なので、オーストラリアでの「春秋制」はサッカーの本場、欧州の「秋春制」と合わせることができた。そのため、数多くのオーストラリア選手が欧州のトップリーグで活躍することになった。 横浜F・マリノス前監督のハリー・キューウェルはイングランドの強豪、リバプールのFWとして欧州チャンピオンズリーグでの優勝にも貢献している。 さらに、2005年には、日韓W杯で韓国をベスト4に導いたオランダの名将フース・ヒディンクをオーストラリア代表監督として招聘(しょうへい)。2006年には2度目のW杯出場を果たし(奇しくも32年前と同じドイツ開催)、日本代表との試合でも積極的なヒディンク采配が逆転勝利をもたらした。 そして、オーストラリアはOFCを離れて、AFC加盟を果たした。 OFCではオーストラリアは圧倒的な強さを誇っていた。フィジーやトンガなどの島嶼(とうしょ)国は、ラグビーでは世界の強豪だが、サッカーでは弱小国。対抗できるのはニュージーランドだけだった。 従って、W杯オセアニア予選ではオーストラリアは圧勝を続けるが、格下との対戦ばかり。これでは代表強化が難しいうえ、オセアニア単独では出場が認められず、欧州や南米の強豪国とのプレーオフを戦わなければならなかった。