『虎に翼』寅子と『エヴァ』アスカは似ている? 理屈では片付けられない激情と言葉
『虎に翼』が寅子(伊藤沙莉)をここまで“未熟”に描くことに理由はあるのか
寅子は法律が大好きで妙に理屈ぽいわりに、突如として非論理的な言動にでることがある。例えば、女性でも弁護士になりたいと願い、それが叶ったが、未婚だと信頼されないため結婚し、子供を作ったこと。冷静に考えれば、仕事のために子供はつくらない選択もあったはずだ。が、それに関する葛藤は描かれず、当たり前のように子供を作り、両立が難しくなっていく。そして両立を応援してくれない穂高に怒りを向けた。 「雨だれ」という言葉が寅子には、個人を無名化する悪しき考えと認識され、怒りのトリガー化する。道徳と法を別に考えることと同じように、一般論の雨だれと、個人の尊厳は混ぜないで、切り分けて考えるべきなのに、それができない。穂高の送別会という式典で、たくさんのえらい人たちがいるにもかかわらず、寅子は無礼な態度を抑制することができず、「雨だれ」を発した穂高にこれまで溜めてきた鬱憤をぶちまける。そのわりに、どんなときでも関わった人たちの名前をあげて謝辞を述べるようなことはあまり描かれない。 心配して謝りにきた穂高には「元気ですか」とトンチンカンな言葉をかけて、多岐川(滝藤賢一)に「その誤魔化し方には無理がある」と言われてしまう。 職場でとてつもなく大きな声で叫んだり、寅子はめちゃくちゃな人である。むしろ、創作で、ここまで無軌道な人物を描けるのはすごいことだ。人間が頭で創作することにはどうしても理性が働くので、ある程度、理屈にかなった描写になってしまうからだ。だが、現実の日常生活では、うまく言葉にできないことや、支離滅裂な言動をとってしまうことは誰にだってあるものだ。それにしても、ここまで主人公を“未熟”に描くことに理由はあるのだろうか。たぶん、ある。法律、しかも裁判官という絶対に選択を間違えてはならない責務を担う人物を容易に最初から正しい人物として描くのではなく、様々な間違いを体験したすえに、清濁あわせもった存在として裁判に当たるように描きたいのではないだろうか。寅子にはそのうちとても大きな案件が待ち受けているだろうから。 ところで。寅子を受け止めて、最後に寅子を誇りに思うと認めることでねぎらって、でもいつかは寅子も、「雨だれ」としての「出涸らし」になるのだとチクリと言うことは忘れなかった穂高。なんて知性のある人物であろうか。それもこれも小林薫が、たぶん台本どおりに語りながら、でも絶妙に、フラットにバランスをとっている賜物であろう。真ん中でポキリと折れない橋のように少しだけ揺れながら存在しているから成立しているのだと思う。 穂高に対して認めてもらうことを願っていた寅子だが、娘・優未(竹澤咲子)がテストで“84点”をとっても褒めることはなく100点を目指せと言う。穂高と同じことをしていることに気づいていない。それに気づくのは次週だろうか。
木俣冬