「絶対に本番には出さない」と言われた「ウイッキーさん」の「ズームイン!!朝!」英会話コーナーが14年続く名物となったワケ
「絶対に本番には出さない」
もう2月も半ばを過ぎていました。放送開始まで時間もないので私が代わりに出演し、日テレに見せるための試作版を作ることになりました。制作側から「絶対にあなたは本番には出さないよ」と言明された上で、です。 撮影場所は、旧国鉄(現JR東日本)の王子駅だったと思います。その場で、質問を何か考えるように言われ、ちょうど確定申告の時期だったので、「Where can I pay my tax? (どこで税金を払えますか)」と聞くことにしました。もちろんぶっつけ本番です。全然、誰も止まりません。私を見ると逃げるんですよ。 すると、ディレクターが「あと2分しかないから、誰か絶対に止めろ」と焦っています。 仕方なく、前方から来た2人連れの年配の女性に声をかけました。1人は逃げてしまい、もう1人が私に気づいてくれて「OK、OK」と答えてくれました。 安心したのもつかの間、その女性は私の手をぐいぐい引いて、タクシーのところまで連れて行きました。taxをtaxiだと思ったのでしょう。番組の時間は残りわずか。タクシーに乗せられて困っている私の顔で終わりました。 予想外の「落ち」が付いたおかげで日テレ側の感触は良く、「彼だったら何とかなるんじゃないの」と言っていたそうです。それでも、澤田さんは私を出すことには最後まで反対でした。
徳光さんの呼びかけ
1979年3月の日本テレビ系「ズームイン!! 朝!」の放送開始とともに「ワンポイント英会話」のコーナーも始まりました。ほかにやり手が見つからず、私が出演した試作版が日テレ側に受けたこともあり、英語で話しかけるのは、私ということになりました。 ただ、位置づけは、不要なおもちゃのオークションをするコーナー、「愛のオモチャリティー」の付録のようなものでした。オモチャリティーでロケに行き、同じ中継車を使って、ケーブルが届く半径200メートルの範囲内で場所を見つけ、英会話をやるのです。 私の顔は出さない約束でした。実際に中継が始まったときも「カメラの方を向いてしゃべるな」という指示がありました。カメラは、私に声をかけられた人の表情を狙っているので、私の正面には回りません。 オモチャリティーは団地が主な訪問先でしたから、午前7時過ぎに外を歩く人もあまりいません。誰にも声をかけられないまま歩いていると、総合司会の徳光和夫アナウンサーが「顔くらい見せなさいよ」と呼びかけるのです。私は「いいんですか?」と尋ねました。徳光さんは「もちろんだよ。これテレビだよ」。 私はカメラの方に向き直って話し始めました。これがすべての始まりでした。 〈系列局を全国ネットの生中継で結ぶ朝の情報番組という民放初の試みは好評を博したが、当初は不慣れさが目立ち、放送開始2日後、79年3月7日の読売新聞朝刊は「一体にたどただしいのがまだ実情」との評価を載せている〉 コーナーは不評でした。1か月もたたないうちに「中継車は出さない」という結論が出まして、金曜日に開催される日テレでの定例会議で通告されました。私は「来週から現場に行かなくていい」と。 会議室はもう重苦しい雰囲気で、泣いている中継スタッフもいます。彼らも仕事がなくなるわけですから。でも、誰も「もう一度チャンスを」とは言いません。総監督の澤田隆治さんもいましたが、黙ってそっぽを向いているんです。 私はたまらず立ち上がって、日テレの仁科俊介プロデューサーに言いました。「1、2週間ください。がんばりますから」――。それを聞いた仁科さんは、1分ほどこちらをじっと見つめて、それから部屋を出て行ってしまいました。 澤田さんには「ああいう頼み方でOKなら私もするよ。あれで人が動かせると思ったの?」となじられました。 仁科さんは、オモチャリティーだけでなく、中継での私の動きも「変だ」と言っていました。実際に録画を見てみると、手がだらりと下がり、ひざをまげてサルのようです。反省するところは多くありました。 4、5分すると、仁科さんが戻ってきて「じゃあ、ウイッキー。来週はあなただけに中継車を出すことにしてきた。そのうえで考えよう」と言いました。 まさに崖っぷち。ワンポイント英会話の存続をかけての5日間が始まることになりました。