年に一度の|旬のライチョウと雷鳥写真家の小噺 #32
年に一度の|旬のライチョウと雷鳥写真家の小噺 #32
季節もののエッセイを書いている都合上、内容が多少かぶることがあるかもしれない。それこそ何年もライチョウを追いかけていると、季節によっての彼らに対するフォーカスポイントはおおよそ決まってくるのでいたしかたない。それが年イチの大型イベントとなれば毎年かぶるのはもはや定めである。というわけで、今年もやってきた悩殺フワフワ天使爆誕降臨の儀、いざ参らん。 編集◉PEAKS編集部 文・写真◉高橋広平。
年に一度の
このエッセイが公開されている日は、私は稜線上の拠点にて「その時」に備えて現場検証を繰り広げているはずである。「その時」とは当事 者であるライチョウさんたちとしても、生きて紡いでいくうえでもっとも重要なイベント、産卵・抱卵からのヒナ誕生である。 もちろん生まれてからの子育てもそれ以上に大変なことであるが、なにしろ生まれないことには話が始まらない。私は毎年この時期になるとライチョウさんたちの縄張りを見張り、大切な卵たちを温める彼・彼女たちと同様に、期待と不安の入り混じった特別な感情に振り回されることになる。期待は、待望のヒナたちが無事に1羽でも多く卵から孵ることを待ち望んでいるということ。不安は、ちゃんと卵がみんな孵るか、そして無事に大きくなってくれるかということである。 生息環境の厳しさも相まって、基本的には増える要因よりも減る要因のほうが多い。折に触れて生後1カ月の生存率がおよそ3割とお伝えしているが、つまりは6羽孵ったとしても自ら体温調節できるようになるまで成長することのできる個体は2羽程度ということであり、その厳しさが計り知れるだろう。 蛇足だが、そういったなかなかにシビアなライチョウのヒナ爆誕劇を見守る私の心境は、さながら親しい知人の子どもが生まれる報を聞きつけたのち、なぜか出産に立ち会うことになっちゃったオジさん……、に近いものである。なんじゃそら。 例のごとく獣の勘に匹敵する感覚を駆使し、抱卵活動中のメスのライチョウを見つけ出す。あえて何度も言わせていただくが、極めてデリケートな相手のデリケートな時期であるので、専門家以外の人の抱卵巣の捜索は厳に慎んでいただくようお願いする。 不用意に接近し、万が一にでも母鳥の機嫌を損ねた場合、最悪、せっかく産み揃えて大事に温めていた卵たちを放棄して、すべてを台無しにしてしまう可能性がある。言い方を換えるならば数羽のライチョウを死に至らしめるのと同義ということである。私や専門家の人たちはそういった危険性を可能な限り排除したのちに、極めて細心の注意を払ってやっているのだということを認知していただければ幸いである。 今回見つけ出した母鳥とは数年来の付き合いである。おそらくは私の所作や気配から「あいつだ」という認識をもっているものと思われる。あくまで私の認識ではあるが、ライチョウという生き物はそれなりの学習能力を有し、近隣に住んでいる各個体間で情報を共有しているものと推察している。 もちろんライチョウ語を話せるわけではないので本人たちに「実際のところどうなの? 」と問うことはできないのだが、彼らの反応などを見続けていると十中八九そうだろうと思わせるものがある。そういう前提のもとに、見知った彼女とコミュニケーションを取り、日に数度様子をうかがうことを黙認していただき、それを重ねること数日ののち「その時」に立ち会うことができた。 今回の一枚は抱卵の末に無事に孵ってくれたヒナたちと、この子たちを約3週間のあいだ包み守ってくれていた卵の殻の写真である。 こうして五感をフルに活用してライチョウと接していてもほとんど使う機会のない感覚として嗅覚があげられるのだが、ふと思い立ち、巣に残された卵の殻にむけて鼻を近づけてみたのだが……、ちゃんと生臭い匂いがして、なんだか妙に嬉しかったのを覚えている。またこの卵の殻に関してはおもしろいギミックがあるのだが、またなにかの機会にお話しするためにあえてそのネタは取っておくことにする。