生まれた時代が早すぎた天才「ガリレオ・ガリレイ」の人生と功績
「それでも地球は回る」二度のガリレオ裁判
しかし絶頂期は長くつづきませんでした。ガリレオが語る地動説は「キリスト教の教え(聖書)に反する」とされ、1616年に検邪聖省に異端の疑いで告発されたからです(第1回異端審問所審査)。 実のところガリレオは、とても敬虔なカトリック教徒でした。2人の娘を修道女にしており、神を冒涜する気なぞ全くありませんでした。 その彼になぜ異端の疑いがかかったのか――。これを理解するには時代背景と聖書を少し知る必要があります。 ▼アリストテレス哲学とキリスト教 この時代の学問は、アリストテレスが構築したものが基本でした。しかし、アリストテレスは古代ギリシャに生きた人。キリスト教が誕生するずっと前に亡くなっています。 その一方で2000年もの長きにわたりアリストテレス哲学が絶対的な権威であった理由は、キリスト教神学をアリストテレス哲学によって体系化した「スコラ学」が当時の学問そのものだったからです。 「スコラ」は「School」の語源であり、教会または修道院付属の学校を指します。この時代、すべての学問は「スコラ」、つまりキリスト教の下で研究されていたため、当時のキリスト教(カトリック)はアリストテレス哲学を絶対的に支持していたわけです。 コペルニクスやガリレオが生きた時代、天文学者の“研究”とは空を見上げるのではなく、アリストテレス哲学の書物を学ぶことでした。 そこに、実際に自分の目で天体が見えてしまう「望遠鏡」が登場し、ガリレオのように押しが強く弁が立つ人物が現れたのです。ガリレオは多くのアリストテレス主義者や権力者の反感を買いました。 ▼聖書との矛盾聖書に「天動説」が明確に書かれているわけではありません。しかし、旧約聖書の「ヨシュア記」10章12~13節にはこう記されています。 主がアモリ人をイスラエルの人々に渡された日、ヨシュアはイスラエルの人々の見ている前で主をたたえて言った。 「日よとどまれギブオンの上に 月よとどまれアヤロンの谷に。」 日はとどまり 月は動きをやめた 民が敵を打ち破るまで。 この箇所を「『日(太陽)よとどまれ』と命じたら止まったのだから、太陽は動いているもの(=天動説)」と解釈すると、「地動説は聖書に反している」ということになります。 地動説が事実であると知っている現代の人にとっては、“こじつけ”による告発であると思うでしょう。しかし当時の人々が聖書を“文字通り”に読もうとすればそういう考えに至るのも分かります。 聖書は書かれた当時、人々が読んで分かるような表現になっており、比喩もたくさん使われています。聖書と実証された何らかの“真実(と思われること)”の間に矛盾があるように受けとれる表現の場合、「その奥にある意味を読み取る」ことも大切です。現代においてヨシュア記を理由に地動説に異議を唱える人はいませんが、他の箇所において「聖書を文字通り読むか、読まないか?」の問題は、現在のキリスト教に依然存在しつづけています。 ガリレオは「聖書は『どのようにして天国に行くのか』を語るものであり、天体の動きを語っているものではない」とし、「自然現象は神によるものであり、聖書と矛盾しない」「(どうしても矛盾が見られる場合、それは)聖書の真理がまだ解明されていないからだ」という解釈で、地動説が聖書に反していないと反論しました。 また、当時の学者や宗教者が全員「反ガリレオ」だったわけではありません。 アリストテレス哲学では説明できない現象があること理解していた人たちもいました。しかし「反ガリレオ派」によってこの聖書箇所は彼を追い詰めるかっこうの理由となりました。 ガリレオは元来の押しの強さと雄弁さで正当性を主張したことで敵を増やし、権力争いにも破れたのです。 ▼二度の裁判 第1回裁判で、「地動説を放棄すること」「この説を教えること、擁護すること、論じることを今後一切控えよ」と命じられたガリレオ。宣誓書にサインすれば無罪となるため、ガリレオはサインをしました。 ところが、ガリレオは再度訴えられました。 第1回裁判の命令を鑑み、1632年に出版した『天文対話』ではアリストテレス主義者、自分の代弁者(ガリレオ)、中立者の3人の対話形式で、地動説だけを主張するものにしませんでした。そのように注意深く書かれた書物でしたが、それでも「論じること」さえも禁止した命令に背いている、とされたのです。 1633年にガリレオは出頭を命じられます。この第2回裁判で『天文対話』は禁書となり、ガリレオは終身禁固を言い渡されました(翌年「自宅軟禁」に減刑)。 有罪を告げられたガリレオは、再び「地動説を放棄する」と宣誓させられました。 宣誓の後、「それでも地球は回っている(動く/動いている)」とつぶやいたというエピソードが有名です。しかし、実際にガリレオが言ったという記録はなく、後年に弟子が後づけで作ったエピソードの可能性が高いようです。 ▼実は77歳まで生きたガリレオ 自宅軟禁は生涯解かれることはなく、心身ともに疲れ果てたガリレオは体を病みました。1637年には片目を失明、翌年には両目を失明しました(望遠鏡の見過ぎによる失明の説あり)。 失意の底にありつつもガリレオは最後まで研究を続け、口述筆記により『新化学対話』を書きあげます。イタリア内では出版できないため、この書物は国外に持ち出され、1638年にオランダで出版されました。これがガリレオの集大成となりました。 その4年後、1642年にフィレンツェ郊外のアルチェトリの自宅で亡くなりました。享年77歳でした。