生まれた時代が早すぎた天才「ガリレオ・ガリレイ」の人生と功績
近代科学と天文学、たくさんの功績
ガリレオは「数学とは、神が天地万有(Universe)を書いた言語である」と語りました。彼は数学・物理学・天文学の分野で大きな功績を上げた人物ですが、そこに流れる手法は1つであり「物体の運動(動き)を実験で証明し、数式で表現すること」でした。 現代では当たり前とされる実証方法ですが、この手法を確立したのはガリレオであり、これがガリレオが「近代科学の父」と呼ばれる所以です。 ▼近代科学の父としての功績17世紀当時、学問は「万学の祖」と言われるアリストテレス(紀元前384年~紀元322年)が築いた哲学(哲学の中に数学や物理学、天文学等の各学問が分類される)が基本でした。 アリストテレスの時代からガリレオの時代まで2000年にわたり、何人かの科学者が異を唱えたこともあったものの、多くの“科学”がそのまま信じられてきました。 しかし、天才ガリレオは、自然界の動きすべてをアリストテレスの理論で証明することは不可能だと気づきます。 代表的な発見は「振り子の均等性」、そして「落体の法則」の発見です。 この「落体の法則」の実験として、ピサの斜塔から大小2つの球を同時に落として検証した…というエピソードは有名ですが、この実験をガリレオが本当に行ったのかは定かではありません。 ガリレオが実際に行ったのは、傾斜を使い、物を転がす方法でした。パドヴァ大学教授時代の1609年頃に数式として結論づけたと言われています。
「天の川」を観測したのも大きな発見でした。 アリストテレスは「地球が宇宙の中心(天動説)」と考え、また彼の宇宙観は「太陽系」内にとどまったものでした。しかしガリレオは天の川を見たことで、宇宙には恒星が無数にあり太陽だけではないこと、そして宇宙は太陽系に限らず、もっと広い「無限の世界」であることを知ったのです。 「地動説」を最初に唱えたのはガリレオではなく、少し前の時代に生きたポーランドの天文学者・コペルニクス(1473~1543年)です。ガリレオは1597年頃までにはコペルニクスの「地動説」を支持していたようですが、観測結果を記した『星界の報告』(1610年3月)はコペルニクスの説をさらに裏付けるものでした。 『星界の報告』は大きな反響を呼びました。賞賛した学者がいた一方で、アリストテレス主義者たちと論争を巻き起こし、彼の名は欧州の学術界に知られることになりました。 これに伴い名声を得ましたが、発見した木星の衛星を「メディチ星」と名付けてメディチ家(トスカーナ大公家)に献上したり、自作の望遠鏡を自分を引き立てるお偉方にプレゼントする等の“就活”にも勤しみました。 その甲斐あって、1610年、ピサ大学数学教授兼トスカーナ大公付哲学者・数学者という地位を得ます。1611年には科学アカデミーである「リンチェイ・アカデミー」に入会。この頃が「研究者ガリレオ」がもっとも輝いた幸せな時代でした。