智謀と嫉妬、黒田長政は壮絶な最期を遂げる"義兄弟"後藤又兵衛となぜ決別したのか 福岡城で晩年の官兵衛が明かした親心とは
『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の"城好き"で有名です。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。今回は、黒田長政と福岡城です。 【画像ギャラリー】広大な福岡城跡と大濠公園、黒田官兵衛・長政親子の夢の跡
信長の人質に、長浜城で幼少期を過ごす
黒田長政は黒田孝高(官兵衛)の嫡男で、幼名は松寿丸といいました。官兵衛が織田信長に仕え、羽柴秀吉の軍師になると、天正5(1577)年から信長への人質として秀吉に預けられ、秀吉の居城だった長浜城で過ごしました。 黒田官兵衛の主君だった小寺政職(こでら・まさもと)の子が病弱だったため、身代わりになったと考えられています。
10歳の時に殺される危機、竹中半兵衛が別人の首を差し出して逃れる
長浜城では年上の市松(福島正則)や虎之助(加藤清正)らと交わり、元気に育ちました。ところが信長の家臣だった伊丹城主の荒木村重が謀反を起こし、敵対する毛利方に寝返ったことで、10歳だった松寿丸の身は一時、暗転します。 秀吉は、村重と旧知の仲だった黒田官兵衛を派遣し、翻意を促しますが、村重は逆に官兵衛を幽閉してしまいます。戻らない官兵衛を裏切ったものと考えた信長は、秀吉に人質である松寿丸を殺すよう命じますが、官兵衛とともに秀吉の軍師を務めた竹中半兵衛が、信長に別人の首を差し出す機転を見せ、松寿丸の命を救ったのでした。
関ヶ原の戦いでの功績
長政は、本能寺の変で信長が自刃すると、父・官兵衛とともに秀吉軍に従軍。備中高松城攻めや賤ヶ岳の戦い、九州征伐、朝鮮出兵といった戦いで武功を挙げ、福島正則や加藤清正と同様、武闘派に属し、官僚タイプの石田三成と敵対します。秀吉の死後は対立がより深まり、慶長4(1599)年、前田利家が亡くなると武闘派7将による三成襲撃未遂事件を起こしています。 そうしたこともあって、関ヶ原の戦いでは断然家康側につきます。彼の最大の功績は、秀吉子飼いの猛将・福島正則を訪ね、家康方につくことを約束させたことでしょう。福島正則は長政以上に三成嫌いでしたが、世に言う小山評定で、正則がいち早く家康支持を表明したことで、会津征伐から一転、三成率いる西軍との決戦が決まったのでした。 さらに、小早川秀秋や吉川広家への調略も、長政の手腕でした。このあたり、官兵衛譲りの策士といったところですが、決して裏で活躍するだけの武将ではなく、実際の戦闘でも黒田勢の戦いぶりはすさまじかったと記録されています。