親の介護、夫の闘病…家族を支えながら模索したフローリストの仕事
専業主婦からフラワーデザイナーの道へ
──フローリストのアルバイトはどれくらい続けたのですか? たかはし:だいたい1年くらいです。結婚式をその年の5月に挙げることが決まっていて、4月いっぱいで辞めるつもりでしたが、3月に弟が亡くなったので、そのままバイトも辞めてしまいました……。 相模原に大雪が降って停電した次の日、弟を起こしに行ったら、亡くなっていました。死因は一酸化中毒。蝋燭を持って部屋にこもっていたんです。 式を延期しようかと思ったけど、すでに招待状も出していたので、とにかく結婚式を挙げました。 ──そんななか、式を挙げないといけない……辛いですね。 たかはし:夫は実家の新潟で就職していたんです。ずっと遠距離恋愛をしていて、夫の両親も早く嫁に来てほしいという思いがあって……初めて親元を離れました。 けれども、弟の死を受け止められず精神のバランスを崩した母が心配で、毎月相模原に帰っていました。夕飯の時間になっても、電気もつけないし何の用意もしない……あんなに気の強い母が弱っているのを目の当たりにして、離婚して実家に戻ってこようと決意しました。 「今ならお互い若いし、再出発もできる。別れましょう」と、夫に言うと、「僕も東京で新しい仕事に挑戦したい」と言い出したんです。 お義母さんは大反対でしたが、お義父さんが背中を押してくれて、結婚して1年で、夫婦二人で相模原に戻ってきました。それからすぐに妊娠し、26歳で長女が誕生しました。 ──まさに激動の20代ですね。花の道に再び進もうと思われたのはいつですか? たかはし:娘が2歳を過ぎたころ、実家を建て直して両親と同居することにしました。そろそろ自分のこれからのことも考えたいなと思っていて。 母は体調を壊し気味で、また娘の子育てもあるので、規則正しい会社員の仕事は無理だと感じていました。自分が長く続けられる仕事は何だろうと模索していたら、やっぱり花の仕事がしたいと思ったんです。御茶ノ水のあの日々が忘れられなくて。 母が和なら、私は洋の道に進もうと決めました。母へのちょっとした反抗心ですかね(笑)。花の仕事につくには何か後ろ盾がないとダメだと思い、それなら名の知れたスクールに通おうと。 ちょうど日比谷花壇が運営するスクール(ヒビヤフラワーアカデミー、現在直営校は閉校)が表参道にオープンしたころだったんです。夫を説得して、29歳で入学しました。3年間のコースでしたが、通い始めて1年で母親がくも膜下出血で倒れてしまい、介護もあってスクールは1年留年して4年で卒業しました。