<解説>小野憲史のゲーム時評 「ゲーム批評」の思い出 編集長になってみて
超硬派のゲーム雑誌「ゲーム批評」の元編集長で、ゲーム開発・産業を支援するNPO法人「国際ゲーム開発者協会日本(IGDA日本)」元代表の小野憲史さんが、ゲーム業界を語る「小野憲史のゲーム時評」。今回は、小野さんの編集長時代の思い出を語ってもらいます。 【写真】天野喜孝ら大御所も! “ゲーム批評ならでは”の苦労があった表紙イラストの数々
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「ゲーム批評」編集長になった。1999年4月のことだ。「パソコン批評」編集部に移籍して、このままパソコン雑誌を作っていくのかと思っていたので、晴天の霹靂(へきれき)だった。累計100万部を達成した攻略本「ポケットモンスターを遊びつくす本」シリーズのバブルが終了して、取次から返本が始まり(返本率が1%でも1万部だ)、一方で第二、第三のヒットは生まれず、だからこそ出版点数の増加が求められていた(蒔かない種は生えない……絵に描いた自転車操業だ)。詳しい話は現場レベルまで降りてこなかったが、取り急ぎ自分は目の前の仕事、すなわち次号の編集を引き継ぐことになった。
編集長になったことで、社内での立ち位置も変わった。最大の変化は昇進して「管理職(課長代理)」になったことだ。これにより、少しだけ昇給して、かわりに残業代がなくなった。手取りが一気に6~7万円ほど減り、20万円前後になった給料明細を見て、愕然としたのを覚えている。幸い、会社から自転車で約10分の場所にある社員寮(ワンルームマンションで光熱費込み3万5千円)に入居していたので、飢えることはなかったが、モチベーションは下がった。幸い他誌での記事執筆や、インタビュー謝礼の受け取りなどは自由だったので、本業のかたわらアルバイトに精を出した。
業務面では雑誌の売り上げの全責任がかかってきた。実売数の推移を知ったのも、この時が初めてだった。今となっては記憶が曖昧だが、「ゲーム批評」の部数のピークは雑誌コードを取得した15号(「ディアブロ」の特集号だ)で、10万部を刷り、実売が6万部だったように思う。そこから部数が下がり続け、編集長を引き継いだ時点で、3万部を刷って実売が2万部になっていた。前任者の最終号となった「FINAL FANTASY VII」の特集号がよく売れて、3万5千部の実売を記録したが、自分の最初の号(次世代プレイステーションの特集号)はストンと落ちて、再び実売が3万部に戻った。