<解説>小野憲史のゲーム時評 「ゲーム批評」の思い出 編集長になってみて
刷りが3万部で実売2万部、これだけ見れば黒字に見えるが、そうは問屋が卸さない。人件費や家賃など、諸々の経費をふまえると、トントンか赤字だった。そのうえ、取次から攻略本の返本がどんどん返ってきた。そこで部数を上げるため、ない知恵を絞って挑戦を続けたが、事態はなかなか好転せず、苦しい日々が続いた。現場の編集者だったころは、良い誌面を作ることに集中すれば良かったが、編集長になってはじめて、収支計算をする必要が出てきた。営業部から回ってきた数字を見ながら「後に続く者が苦労するので、売れない本を出してはいけない」とあらためて実感した。
ゲーム業界も踊り場を迎えていた。国内ゲームソフト市場のピークが1997年で、そこから縮小が続いた。データイースト、ヒューマンなど、中堅ゲームメーカーの倒産や撤退が続き、追悼特集が増えた。鳴り物入りで発売されたドリームキャストの売り上げが伸び悩み、プレイステーション2の影がちらつき始めていた。一方でマニアを中心にオンラインゲームが流行り始め、2ちゃんねるなどのネット文化が広がりつつあった。ゲームと3DCGとインターネットが融合し、すごい時代になるという期待の一方で、大作主義と続編主義が蔓延し、漠然とした不安が広がっていた。
一方で編集長になって、良いことも……あまりなかったが、少しはあった。一番良かったのは、自分の責任で自由に企画が決められることだった。そこで知人の新聞記者や雑誌記者に声をかけ、業界コラムを書いてもらったり、インタビューに帯同してもらい、記事をまとめてもらったりした。特集テーマにあわせて取材を重ねて、ルポ記事風に仕上げてもらったりもした。沢木耕太郎や海老沢泰久、山際淳司などのスポーツジャーナリズムに影響を受けて、そうした記事をゲーム雑誌でも作れないかと模索したりもした。ひらたくいえば、それまでできなかったことを、いろいろとやってみたくなったのだ。