「縄文農耕論」進展の出発点、炭化種子の発見から50年 提唱者の藤森栄一が没した翌年に発見、学界は「栽培植物が出ていない」と冷ややかだった
長野県の諏訪市博物館と一般社団法人大昔調査会は、同市の荒神山(こうじんやま)遺跡の縄文中期の竪穴住居跡から、炭化種子の塊が発見されて50年になるのを機に、6月から同館でこの種子を特別展示している。種子発見は諏訪市出身の考古学者藤森栄一(1911~73年)が唱えた「縄文農耕論」進展の出発点となった。関係者は「考古学上の大きな足跡を、改めて振り返る機会にしたい」としている。 【写真】あなたも博士に‼ 土偶や土器を紹介する「縄文カード」
藤森は諏訪地域出土の石器や土器の分析を進めるにつれ、縄文中期から農耕が行われたとする縄文農耕論への確信を強めた。だが縄文時代は採集と狩猟、漁労による生活で農耕はないとの見方が主流だった当時の学界は「栽培植物が出ていない」として藤森の説に冷ややかだったという。
荒神山遺跡は縄文前期―中世の複合遺跡で、縄文中期の住居跡が多く見つかっている。藤森が没した翌74年、中央道建設に伴う発掘調査で、住居跡にある炉の脇から直径1・5~2ミリの丸い種子の塊が炭化した状況で発見された。その後エゴマとみられることが判明。栽培など人の手で管理された可能性があり、同論を裏付けるとして注目され、研究が続いている。