本当の自分がわからなくて苦しい→「たった2文字」のブッダの教えに心がフッと楽になる
東大卒のニート・しんめいP氏は東大を卒業後、大手企業、地方の教育事業、芸人など、さまざまな職業を経験したのちに引きこもりになった。ニート中、東洋哲学に衝撃を受けたしんめいP氏が、引きこもりの布団で考えた「悟り」について解説する。※本稿は、しんめいP(著者)、鎌田東二(監修)『自分とか、ないから。教養としての東洋哲学』(サンクチュアリ出版)の一部を抜粋・編集したものです。 【この記事の画像を見る】 ● 「本当の自分」=「無我」 ブッダ「『自分』とはただの妄想」 悟った、ということは、「本当の自分」の答えが見つかったということである。いったい、どんなものなのか? その答えは「無我」だった。 自分とか、ない。 なかったんだってさ。 いやいや、ないって?ここにあるやん?どういうこと? ひとつたとえ話をしよう。ぼくは家がゴミ屋敷なので、すぐモノがなくなる。 ある日、どうしてもサッカーの日本代表戦をみたくて、テレビのリモコンを部屋中探したのだが、見つからない。2時間探してもみつからず、試合が終わってしまった。悔しかった。 しかし、翌日気づいた。おれ、そもそもテレビ持ってなかった。ホラーである。仕事がきつくて頭がおかしくなってた。探していたリモコンは、そもそも存在しなかった。 「ない」ものを探すことは、完全にムダで、おそろしい苦しみだった。 「自分」がない、のだとしたら、「自分探し」はそりゃ苦しいはずである。 「無我」とはどういうことか。いまぼくが、「自分」だとおもってるものは一体なんなのか? ブッダはこういった。 「自分」とはただの「妄想」。ほんとうは、この世界は、ぜんぶつながっている。よく観察すればわかる。 ほんまかいな。「妄想」はいいすぎやろ。
ということで、ブッダに挑戦してみよう。これは、ぼくの「身体」。めっちゃ「自分」。 しかしである。よくいわれるように、人間のからだの細胞は、つねに入れ替わっている。一説によると、3カ月でだいたい入れ替わってしまう。 これは、10年くらい前の写真である。 正面をむいて、真顔の写真を探したのだけど、当時写真をとられるのが嫌いすぎて、ロクな写真がのこっていなかった。 写真アプリのAIは「これ、お前だよ」と判定してくれたし、ぼくも「自分だな」とおもう。 みなさんも、10年前の自分の写真をみて「自分だな」と思ってるだろう。そりゃそうだ。 しかし、驚くべきことに、10年前の身体と、いまの身体は、物質的に完全別物レベルなのだ。過去の写真をみると、不思議なきぶんになってくる。 ● 食べ物、他人の吐いた息… 体は自分以外のものでできている そもそもである。身体は、食い物でできている。 昨日、コンビニでかったチキンをたべた。ファミチキである。「ファミチキ」なるウキウキしたなまえに、つい騙されるが、要は「鳥のからだ」である。 ファミチキを食う、ということは、「鳥のからだ」を、吸収してるということだ。