本当の自分がわからなくて苦しい→「たった2文字」のブッダの教えに心がフッと楽になる
いまのあなたの筋肉は、むかしたべた「鳥のからだ」だ。「自分」のからだは、食べもの、つまり「自分以外」のものからできているのだ。 もっといえば、「鳥」も、「鳥」以外のものでできている。虫とか食ってる。 「虫」も、「虫」以外のものでできてる。草とか食ってる。 「草」も、「草」以外のものでできてる。水とか太陽の光とか。 この世界は、全部つながりすぎている。ちゃんと観察すると、「これが自分」といえるものが何もないことに気づくのだ。「無我」である。 もう1個、追い打ちをかけるように、残念でグロテスクな世界の真実をつたえたい。 いまこの瞬間、おなじ空間に人間はいるだろうか?家、職場、電車、なんでもいい。 その空間は、みんなのはいた「息」や、なんなら「屁」が循環している。 考えたくないが、本当は知っているはずだ。われわれは、お互いの、「息」や、なんなら「屁」を、呼吸のたびに、すいこみ、身体に吸収しあっている。 同じ空間にいるだけで、つねに、みしらぬおっさんとかと、物質を交換しあっているのだ。サッカーのユニフォーム交換のように。そうして出来上がっているのが、いまの身体である。
ごめんな、こんなこといって。でも、残念なくらい、すべてはつながってる。あんまり考えたくないレベルで、つながってるのだ。 それでも、なかなか「自分」が「ない」とは信じられないだろう。身体はそうかもしれんけど、心はどうやねん。 ● 「カレーが食いたい」という 思考はどこからわきあがる? いまこの文を読んでる間、いろんな思考がわきあがってきているとおもう。 心のなかで、考えること。そんな「思考」のことを、ふつう「自分」だとおもって生きている。そりゃそうだ。 しかし、である。「思考」をよーーーーーく観察すると、ちがうことがみえてくる。この写真をみてほしい。 「カレー食いたい」と、おもわなかっただろうか?おもったことにしてよ。 しかし、である。よーーーーーく観察してほしい。 「カレー食いたい」という「思考」は、どこからともなく、勝手に「わきあがってきた」のでは? よっしゃ!いまから「カレー食いたい」って思考するぞ!→「カレー食いたい」。こんなヤバいひと、いないでしょ。いたらなんかごめん。 思考が「わきあがってくる」瞬間をよく観察すると、思考のことを「自分」だとだんだんおもえなくなってくる。というか、なんかこわくなってくる。