「百年の後 必ず我を知るものあらん」26年前の番組が貴重な研究資料に…「伊那市・旧高遠町出身の政治家 中村弥六」の生涯を描いたドキュメンタリー番組
テレビ信州
まずは、この番組映像をご覧ください。 『中村弥六 未来への遺産~フィリピン独立100年目の真実~』テレビ信州が1998年に放送した特別番組です。番組は 明治時代に活躍した信州・高遠出身の政治家中村弥六(なかむらやろく)の生涯を辿る中でフィリピンと日本の交流を描いたものです。 (スタジオ) 今から約四半世紀前テレビ信州が放送した、この中村弥六の番組が「歴史研究の貴重な資料」として大学研究者の目に留まり先週末、この番組をもとにしたシンポジウムが開かれました。 先週末<11月16日(土)>伊那市高遠で開催されたのは「映像資料『中村弥六 未来への遺産』をめぐるパブリック・ヒストリー」というシンポジウム。テレビ信州が1998年に制作・放送した特別番組を大学の研究者らが歴史研究の貴重な資料として捉え開かれたものです。 日本大学高綱 博文 名誉教授(中村弥六研究会代表) 「番組を遺族の方から手に入れ観た瞬間これはすごいと思った」 「文章で書かれているものでなく1997~1998年のフィリピンが出てきまして、その瞬間引き込まれたというね」 『中村弥六 未来への遺産~フィリピン独立100年目の真実~』は明治時代「林学の父」と言われた林学の第一人者で、政治家だった伊那市 高遠出身の中村弥六の生涯を描いた1時間のドキュメンタリーです。 弥六は少年時代、高遠藩の藩校「進徳館」で儒学や実学など「高遠の学」を学び「アジアの連帯が重要」との思いから当時、アメリカの植民地だったフィリピンの独立運動を支援。1899年、私財を投入するなどして武器・弾薬を積んだ船「布引丸」を日本からフィリピンに向け出航させました。 しかし、船は航海途中で沈没。アメリカから厳重な抗議を受けた日本政府は、弥六に横領の疑いをかけることで責任を押し付け、政界引退に追い込みました。 番組は1998年、当時のラモス大統領に単独インタビューを行うなど建国100周年のお祭りに沸くフィリピンを取材。フィリピンと日本の友好関係の礎を作った中村弥六の生涯を描いています。 テレビ信州 報道制作局長(当時の番組ディレクター)篠原 弘和 「25年以上、四半世紀前に作った番組が、こうして研究資料として再びスポットを当てていただけたのは、大変ありがたく思いますテレビマン冥利に尽きます」 シンポジウムには、地元伊那市高遠の市民を始め、フィリピンからの聴講者など約40人が参加。番組を上映後研究会のメンバーがテレビ映像を積極的に利用した公共歴史学(パブリック・ヒストリー)を考える上で、貴重な資料として弥六の名誉回復がその後どのようになされていったのか研究報告を行いました。 横浜市立大学准教授金山 泰志准教授 「今回の映像は、まさに1990年代の中村弥六イメージ像大変貴重な資料でそれをぜひとも分析したく取り上げさせていただいた」 参加者は… 「映像化されているので理解しやすかった」 「我々も視野を広くしていかなきゃいけない。すごく学ばせていただきました」 番組は最後に弥六の遺書に遺されたこの言葉を伝えています。 「百年の後 必ず我を知るものあらん」 日本大学高綱 博文 名誉教授(中村弥六研究会代表) 「パブリック・ヒストリー公共の歴史学は世界的な潮流。その事例の先駆的なものだと思いまして。中村弥六の生きた時代をまさにグローカルな時代を彼がどう生きたかを皆さんと一緒に考えたいと思います」 研究会は、今後もシンポジウムを開くなどして歴史に埋もれていた信州が生んだ「反骨の政治家」中村弥六の研究を進めていくということです。 番組が放送された1998年は世界が長野に注目した長野オリンピック開催の年でした。番組はその100年前に信州出身の中村弥六が、当時の世界情勢を見つめ行動を起こしていた史実をえています。 ウクライナ侵攻、ガザ紛争、混迷する世界のニュースが届く今、改めて世界と日本、世界と信州というグローバルとローカルを併せ持った「グローカル」な視点が重要です。