『第三の男』はなぜ映画史に残る屈指の傑作となりえたのか ※注!ネタバレ含みます
不安感を醸成する撮影
作家グレアム・グリーンが、当時気鋭といえるキャロル・リード監督のために新たに書いた物語は、友人の誘いでアメリカから戦後のウィーンの地に降り立った、売れない作家ホリー・マーティンス(ジョゼフ・コットン)が思いがけない不幸に出くわすところから始まる。主人公ホリーは現地に着くやいなや、仕事の世話をしてくれるはずの友人ハリー・ライムが交通事故で死亡したことを知り、その足で葬儀へと向かうことになるのだ。 到着時から、頼みの綱のはずだった友人の葬儀に出席するという奇妙な体験をしたホリーは、ハリーの死の状況に不審な点があることに気づく。事故の目撃者として当時の状況を語る者たちが、ハリーの顔見知りばかりなのである。そして、事故現場にいたとされる「第三の男」も姿を見せない。慣れない異国に迷い込んだ男は、その真相を探っていくうちに裏の顔を持つハリー・ライムを取り巻く陰謀に巻き込まれていく。 主人公の不安感を醸成するために多用された演出が、「ダッチアングル」と呼ばれるカメラを斜めにして不安定な構図を作り出す撮影技法だ。歴史ある街並みの荒廃とこの不穏な演出によって、観客もまた混乱期のウィーンの闇へと入り込んでいく。そんな闇を象徴するような街並みに佇む建物の真っ黒な戸口に、一条の光が差し込まれ、“死んだはずの人物”の顔を照らし出す場面は、衝撃的かつサスペンスフルだ。このような工夫が、本作にアカデミー賞撮影賞をもたらす要因になったといえるだろう。
時代の寵児オーソン・ウェルズがもたらしたもの
いまでは密売人となって、イギリス当局の捜査の手を逃れるために自らの死を偽装していたハリー。そんな、“死んだはずの人物”であり、「第三の男」を演じたのが、当時俳優としても監督としても名を馳せていた時代の寵児、オーソン・ウェルズである。ウェルズは、倫理観や人間らしい心を失いつつも、開き直ってそれを正当化しようとする役を嬉々として演じている。 インタビュー集『オーソン・ウェルズ その半生を語る』で、出番が少ないながら印象に残る役だと指摘されると、ウェルズはこのように振り返っている。「あの役が良かったのさ。脚本にある台詞は全部ハリー・ライムのことばかり。(フィルムの)十巻ずっと彼のことだけが話される。それにあの戸口のショットだ。最高のスター登場シーンだ!」(キネマ旬報社「オーソン・ウェルズ その半生を語る」) また、これも名場面とされる観覧車でのシーンでのハリーの語りは、なんと演じるウェルズ自身が書いたものだ。「こんな話を知っているか? 三十年間ボルジア家に支配されたイタリアは、戦争、恐怖、殺戮、流血の惨禍に遭ったが、ミケランジェロやダ・ヴィンチ、さらにはルネッサンスを生んだ。同胞が家族同様に愛で結ばれ、五百年のあいだ民主制と平和が続いたスイスは何を生んだか? 鳩時計だよ」 このセリフは、ハリーがホリーに対し、物品を横流しするなどの悪事を平気でするようになった自分を正当化する文脈で発せられているが、ここで揶揄している「鳩時計」は、スイスの土産物屋で売られていることからスイスの工芸品だというイメージが一般に流布されている場合があるが、じつはドイツ発祥なのだという。そのことをのちにスイスからの書簡にて丁重な文面で指摘されたのだと、ウェルズはインタビューにて明かしている。 名作だとされる映画の多くは、語り継がれるようなラストシーンが存在する場合が多く、本作もその例に漏れない。アリダ・ヴァリ演じる、ハリーの元恋人アンナ・シュミットが寂しく枯れた並木道を通り、途中で待つホリーを無視してクールに歩き去っていく様子を正面から捉えた長回しのショットは、『カサブランカ』(42)にも並ぶ、“ほろ苦”な名シーンとして、多くの映画ファンによって愛されてきたものだ。 アントーン・カラスによる作曲と演奏。当時のウィーンロケによる本物の荒廃と、ダッチアングルやモノクロ撮影の闇の深さによる不安感の醸成。混乱の時代に失われる倫理観を表現したグレアム・グリーンやオーソン・ウェルズの風刺精神。そして、その全てを見事な一作にまとめあげ、映画史に残る屈指のラストシーンで締めることに成功したキャロル・リード監督の手腕。このような、さまざまな才能や魅力が凝縮された作品だからこそ、本作『第三の男』は長年の間、名作として愛されてきたのである。 文:小野寺系 映画仙人を目指し、さすらいながらWEBメディアや雑誌などで執筆する映画評論家。いろいろな角度から、映画の“深い”内容を分かりやすく伝えていきます。 Twitter:@kmovie (c)Photofest / Getty Images
小野寺系