「峠の釜めし」の売り子は、なぜ最敬礼でお出迎え、お見送りをしていたのか?
【ライター望月の駅弁膝栗毛】 「駅弁」食べ歩き20年・5000個の放送作家・ライター望月が、自分の足で現地へ足を運びながら名作・新作合わせて、「いま味わうべき駅弁」をご紹介します。 【写真全10枚】駅弁味の陣2023で初陣賞を受賞した「月見の釜めし」
現在、全国で駅弁の立ち売りを行っている駅は極めて少なくなりました。中高年の方にとって、多くの方の記憶に残っている立ち売り風景といえば、信越本線・横川駅で行われていた「峠の釜めし」の売り子さんの姿ではないでしょうか。あのとき売り子さんたちは、なぜ頭を深く下げて出迎え、見送っていたのか。じつは、そこにも理由がありました。その後の釜めしの“変化”と合わせて、ご紹介してまいります。
「駅弁屋さんの厨房ですよ!」第48弾・荻野屋編(第4回/全6回)
昭和41(1966)年から平成9(1997)年まで、30年あまりにわたって東京と信州を結んできた特急「あさま」号。北陸新幹線の開業で廃止になる際は、横川駅で「峠の釜めし」が販売される風景がメディアに繰り返し取り上げられたものです。「あさま」号として活躍した車両は、その後も役割を変えながら活躍が続き、長野~直江津間の「妙高」号や中央本線の臨時列車として、2010年代後半まで、東京近郊にも顔を出すことがありました。
昭和33(1958)年2月の発売以来、60年以上にわたって高い人気を誇る「峠の釜めし」。最近は、いままでにはあまり考えられなかったような“変わった”釜めしが登場しています。今回は釜めしの立ち売りの思い出から、いまも“変化を続ける”釜めしについて荻野屋の髙見澤志和(たかみざわ・ゆきかず)代表取締役社長にお話しいただきました。
●目迎目送(もくげい・もくそう)、声出しが徹底された売り子さん
―「峠の釜めし」は立ち売りが有名でしたが、売り子さんは何人くらいいたんですか? 髙見澤:常時20人くらいいました。本社社屋近くに横川駅の1番線ホームと直結した売り子さんの待機室がありました。売り子さんは4代目・みねじの時代からの教えで「声を出す」ことが徹底されていました。そして、目迎目送(頭を下げて列車を迎え、頭を下げて見送る)ですね。横川にはかつて弁当が売れない時代がありましたから、多くの方にお求めいただけるようになっても、(感謝の気持ちを込めて)最敬礼でお迎えしていたんです。 ―「峠の釜めし」は、売店でも布をかけているのが私はとても印象的で、他にやっている業者さんをまず見ませんよね? 髙見澤:これは「峠の釜めし」が、お客様が望まれた“温かい家庭的なお弁当を提供する”というコンセプトで生まれた商品ですので、保温性を高めるという観点から熱が逃げにくいように布をかけています。いまは(販売を委託しているお店もありますので)全部の売場でできるものではありません。一方で衛生面もあるので、温度管理にはとても気を遣います。いまは世界的にもご飯が炊き上がったら急速に温度を下げるのが一般的ですから。