江川卓の大学時代を鹿取義隆が回想 百戦錬磨の名将も認めた「ピッチャーで1億、バッターで1億」の身体能力
「攻略法は、部室の壁に『打倒・江川』と書かれた紙を貼っていただけです(笑)。いつもは『打倒・早稲田』とか『打倒・慶應』とか書くんですが、法政だけは大学名じゃなく『打倒・江川』。後にも先にも、個人の名前を書いたのは江川さんが初めて。もちろんスコアラーたちが試合を見に行ってデータを集めるんですけど、それでも打てない。 御大(島岡監督)は江川さんについて、当時から『ピッチャーで1億、バッティングで1億』と絶賛していました。江川さんが大学2年の時、御大が全日本の総監督をやったこともあり、間近で見ているんですよね。めったに褒めないあの御大が認めるんですから、やっぱり別格ですよね」 さすがの島岡御大も、江川の飛び抜けた才能を認めるしかなかった。とはいえ、いつの時代も明治が目指すのはリーグ戦制覇である。江川と対戦する時も、最初からあきらめているわけではない。しかし実際に対戦すると、二塁まではランナーを進めることができるがホームには還れない。終わってみればお手上げ状態だった。 「ピッチングはもちろんですが、江川さんはバッティングもすごかった。下半身が強いから体が突っ込まず、クルッと軸を使って簡単にホームランを打っちゃう。とにかく身体能力が高く、正真正銘の二刀流ですよ。江川さんよりも袴田(英利)さんのほうが投げやすかったですから。ほかにも金光さん、植松さん、島本さんなど錚々たるメンバーがいましたが、一番マークしたのは江川さんですよ。もう『何、この人??』ですよ」 明治大はいくらバッティングのいいピッチャーがいたとしても打順は下位と決まっていたが、江川は4年時に法政大の5番を打つほどパンチ力があって、ミート力にすぐれていた。タイミングを外されても、下半身が粘れるから軸がブレずにスタンドまで運んでしまう。桁違いの能力に、相手投手はただただ舌を巻いた。
【万全じゃなくても誰も気づかない】 法政時代の江川に関して言えば、大学2年秋の明治戦の前に肩を痛め、急遽先発を回避したことがあった。江川曰く、その時に痛めた肩が完全には治らず、以後100%の状態に戻らなかったという。そのことについて、鹿取はどう感じていたのか。 「江川さんのなかで100%じゃなかったとしても、周りは誰も気づかないですよ。もともと、ランナーが出るまでは75から80くらいで投げていましたが、それでもなかなか打てないわけですよ。それで得点圏にランナーが進むとギアを上げていたわけですが、そのさじ加減というのは江川さんにしかわからない。見ているほうは、いつもの江川さんとしか思っていない。『あれで壊していたの?』って感じですよ」 そして鹿取はこう続けた。 「たとえば、ほかの大学の選手がケガをした、肩を痛めているらしいという情報は一応入ってくるんですけど、江川さんに関してはまったく入ってこなかった。実際に故障していたとしても、ボールを見たら『本当? いや、ウソだろう。あれだけ投げているし、そんなことないよ』って思っていたはずです。とにかく、万全じゃなくてもとんでもないボールを投げていました」 表向きは肩甲骨周辺の筋肉痛と発表したが、実際は剥離骨折だった。ただ、それが致命傷になったのかどうかは江川にしかわからない。現に、大学3年から超人的な活躍を見せ、プロ入り後も2年目に16勝、3年目に20勝と2年連続最多勝に輝き、この頃の映像を見ると異常なまでのボールの伸びをしている。 本来なら、もっとすごい球を投げられていたのだろうか。江川のことを語ると、どうしても"たられば"の話が出てしまう。それだけ無限の可能性を秘めていたということだろう。 その後、江川は1年の浪人を経て、"空白の一日"というドラフト史に残る前代未聞の出来事の末に巨人入り。同年、鹿取もドラフト外で巨人入団を果たしたのだった。 (文中敬称略) つづく>> 江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している
松永多佳倫●文 text by Matsunaga Takarin