「どう生き抜いたか知りたい」戦地・ウクライナ医師の心に“希望”を与えた、ヒロシマの復興力
ダニーロさんとキリロさんも、前線の病院にボランティアとして参加。一晩だけで、患者を20人以上診ることもあったという。「考える間もなく、ただ血を止めて助けるのが精いっぱいでした」と、戦火のなかで治療を行う苦しい心境を語ったキリロさん。 2人には、医療の技術以外に、もうひとつ学びたいことがあった。それは、被爆地・ヒロシマの復興までの道のり。
世界各地で戦闘が続くなか、改めて注目される“ヒロシマ”。 「広島に行きたいです。原爆が落とされた後、生き残った人々がどう街を復興し、その後の人生を生き抜いたのか知りたいんです」と、ダニーロさんは広島への思いを語った。
「人は変わらない、世界は変わらない」
G7広島サミット以降、改めて世界に“平和の尊さ”を投げかけるヒロシマ。2024年8月11日、広島県広島市にある『平和記念公園』には、ダニーロさんとキリロさんの姿があった。
原爆ドームを見つめ、「こういった被害を受けた建物がウクライナにもあります。壊されたんです」と母国の状況を説明するダニーロさん。その後、二人は原爆の惨状を今に伝える『平和記念資料館』に向かい、ウクライナ語での案内を聞きながら館内を見学した。
見つめるのは、壊滅的な被害を受けた広島の姿。重なるのは、今も戦闘が続く母国ウクライナの街並みだ。
「もう二度と、繰り返してはならないようなことです」と口にしたダニーロさんだったが、「しかし、人は変わらない、世界は変わらないということを、意味しているようにも感じます」と憂いを帯びた表情で思いを語った。
心に芽生えた希望「多くの人を救いたい」
“戦争で生き残った人々はどう街を復興し、その後の人生を生き抜いたのか” この答えを聞くために2人が訪ねたのは、“語り部”として活動する河野キヨ美さん。現在93歳、当時14歳で被爆を体験した。
「たくさん死体が浮かんでいるんです。上を向いたり横を向いたりして、波に揺られていました」 「広島はあんなにひどいことを目で見たんですから、体験したんですから。世界の人に、核兵器の恐ろしさを絶対に伝える人間としての義務があると思います。絶望ばっかりしていてはいけない」