日本軍「元海軍中尉」が明かした「太平洋戦争極秘任務」だった「世界最大”海底空母=潜水艦”計画」、その”ヤバすぎる全貌”…!
パナマ運河建設工事従事者からの資料、極秘裏に研究
戦局が防戦一方となった1943年後半、作戦当事者の間で「パナマ運河攻撃」構想が取り上げられた。米軍の輸送船、補給線を絶つためだった。軍令部作戦室では毎週一回、秘密裡にパナマ運河の調査研究が行われた。 実際にパナマ運河の建設工事に従事した技術者が詳細な資料原本を持っていることがわかり、調査チームはその資料を借りて研究に没頭した。その結果、パナマ運河には三大閘門があり、このうち破壊効果が最も大きい閘門を特定。魚雷と爆弾を併用し、破壊された運河の復旧には最長6カ月かかること、1~2月の乾燥期が攻撃時期として最適――と結論付けた。 1944年2月、建造途中にあった伊400型潜水艦の改造が着手され、晴嵐2機搭載予定は3機搭載予定になった。そして、資材が逼迫する中、第一艦伊400潜は44年12月30日、第ニ艦伊401潜は1945年1月8日にそれぞれ竣工し実働したが、第三~五艦は竣工に至らなかった。
成否握る3機発進時間を20分→10分に
作戦計画のカギを握ったのは、攻撃機「晴嵐」3機を連続発進させる時間の短縮だった。 晴嵐と潜水艦の合同訓練も行われたが、1、2番機の発進はかなり早くて4分、3番機の場合は収納の構造上に無理があったため約15分を要し、全機発進に約20分もかかった。しかし潜水艦が浮上してから全機発進終了まで20分もかかるようでは満足な作戦が遂行できないので、その後、整備員の血のにじむような訓練と努力の結果、全所要時間を10分にまで短縮することができた。 攻撃日時は8月下旬または9月上旬の月明期。日本―パナマ間は片途約2カ月かかるため、内地大湊出撃は6月中旬を予定――。しかし1945年4月時点で日本内地の燃料はほぼ底をついていたため、満州・大連で燃料補給を受け出航した。6月に入り、七尾湾でパナマ運河閘門の模型を浮かべて総合訓練を繰り返した。
「星条旗の掲揚を見るに忍びない」。有泉司令は…
しかし、作戦計画の決裁を得る段階になって、軍令部の大西瀧治郎次長が「中止にしろ、間に合わん」と発言し、計画は一瞬のうちに断念のやむなきに至った。 それでもあきらめきれなかった有泉龍之助司令はサンフランシスコかロサンゼルスを空爆できるよう強硬に主張。しかし上級司令部は却下し、「差し迫った戦局の打開が先決問題だ。パナマ運河攻撃よりも、西太平洋のウルシー在泊の米空母群を攻撃することの方がその成果に確実性がある」と指示。パナマ運河攻撃は一転し、7月23日にウルシーに向け出撃した。 しかし、明日にもウルシーの南方海域に到着すると思われた8月15日夜、天皇の終戦の詔勅を受信。作戦は中止され、17日に内地に向かった。各潜水艦は米海軍に接舷され、晴嵐を飛ばすことも、一発の魚雷を発することなく日本海軍最後の作戦は終わった。 有泉司令は「星条旗の掲揚を見るに忍びない」と自決した。戦利艦となった潜水艦はその「潜水空母」構想が注目され、重要参考艦としてその後、米本土に回航、各種研究と実験が繰り返された後、1946年5~6月にハワイ沖で米海軍機により新兵器実験の犠牲となって爆破され、海底深く沈められ、その薄倖な生涯を閉じた。
潮書房光人新社