「もう終わりにしてください」43歳で子宮頸癌が発覚した娘に何ができるか考え続けて…「後悔はない。これ以上はできないくらい、やり尽くした」
◆今できることを、とにかく精一杯 すぐに治療を始めて治ったものの、1年後に肝臓へ転移。その手術も成功しましたが、また別の場所への転移が次々に見つかりました。 子宮頸癌が発覚してからの1年は、娘も仕事を続けていましたが、2年目からは治療に専念。私も、「これは大変なことになるな」と感じ、娘が住んでいた横浜に飛行機で通って支えました。 私がいないときの娘の体調、検査の結果などの状況は、お婿さんが毎日メールで知らせてくれました。そんな生活が1年ほど続きました。 闘病中、免疫力を上げる食事など、娘と一緒にいろいろなことを試しました。何をしても効果が出ませんでしたが、私はあきらめません。今できることを、とにかく精一杯やるだけ。息子の障がいのときと同様に、現実を受け入れて覚悟をしたら、不思議と湯水のように元気が湧き出てきました。 病状は悪くなる一方でした。途中からは、死を迎える覚悟に変わっていきました。 どうしたら、娘を安心して送り出してあげられるか。残された時間をできるだけ楽しく、笑顔で過ごせるようにするために、何ができるか。そんなことを考えました。
◆自分の力で人生を切り開いていった娘 いよいよダメだとなったとき、娘を家に連れて帰ろうと思いました。娘も「帰りたい」と言いました。でも、帰るなら早く帰らないと、病状が悪化して乗り物に乗れない。すでに飛行機には乗れなかったので、ギリギリのタイミングです。病院からストレッチャーのまま運び出して、新幹線の特別室に乗せて帰ってきました。 病院が地元の病院と連携を組んでくれ、まずは10日ほど入院して、家に戻ってきました。このとき、息子のことでお世話になった社協(社会福祉協議会)に飛び込んで、ヘルパーさん、訪問医、訪問看護師さんを手配してもらいました。 そして、亡くなるまで20日ほど、私、夫、そしてお婿さんも泊まり込んでくれて、3人で看病しました。 娘は入院していたとき、癌友達ができました。その中には亡くなった方もいたので、自分が死に向かっている状況もわかっていました。 最後に、「お父さん、お母さん、もう終わりにしてください。楽にしてください。お願いします」と言いました。 私は思わず「もっとがんばれる」と言ってしまいましたが、主治医が「もう十分です。その時が来ています」と言ってくれました。周りが「がんばれ、がんばれ」と言うよりも、本人が決めたやり方で逝かせてあげたい……。 眠りにつく前には、息子も連れて帰ってきて、みなでお別れをしました。
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