最高裁判事の隠された”素顔”──表の顔と裏の顔を巧みに使い分ける権謀術数の策士たち
「裁判官」という言葉からどんなイメージを思い浮かべるだろうか? ごく普通の市民であれば、少し冷たいけれども公正、中立、誠実で、優秀な人々を想起し、またそのような裁判官によって行われる裁判についても、信頼できると考えているのではないだろうか。 【漫画】刑務官が明かす…死刑囚が執行時に「アイマスク」を着用する衝撃の理由 残念ながら、日本の裁判官、少なくともその多数派はそのような人々ではない。彼らの関心は、端的にいえば「事件処理」に尽きている。とにかく、早く、そつなく、事件を「処理」しさえすればそれでよい。庶民のどうでもいいような紛争などは淡々と処理するに越したことはなく、多少の冤罪事件など特に気にしない。それよりも権力や政治家、大企業等の意向に沿った秩序維持、社会防衛のほうが大切なのだ。 裁判官を33年間務め、多数の著書をもつ大学教授として法学の権威でもある瀬木氏が初めて社会に衝撃を与えた名著『絶望の裁判所』 (講談社現代新書)から、「民を愚かに保ち続け、支配し続ける」ことに固執する日本の裁判所の恐ろしい実態をお届けしていこう。 『絶望の裁判所』 連載第20回 『最高裁に潜む「感情が全くない“怪物”」…他者を見下し躊躇なく切って捨てるトップエリートたちの「実態」』より続く
よい裁判官は最高裁には入れない?
最高裁判事の能力は、特別な関係や理由によって取り立てられたような人を除けば確かに一般的には高いが、事務総局系の人々の中には、裁判官としての一般的な能力が必ずしも十分でない人がいる可能性はある。たとえば、事務総局在籍期間がきわめて長かったある人物について、私は、次のような言葉を聞いたことがある。彼にむしろ好意的だった人の評なので、間違いはないと思う。 「○○さんの判決は短かったと人は言うが、実際には、むしろ、判決はあまり書けなかったというほうが正しいね。私はあの人の下書きを見たことがあるが、お世辞にもほめられたものではなかったよ」 さて、それにしても、たとえば保守的な法律家の中には、私の性格類型別分析には秘められた悪意が感じられるという人がいるかもしれない。しかし、こういうことも考えてみてほしい。 第一に、裁判官には知的能力なら相当に高い人間は一定程度の割合で存在し、最高裁判事になった人々の能力が決定的に高いとは必ずしもいえないこと、第二に、キャリアシステムの中で最高裁判事になる人々は、ごくわずかな例外を除き、多かれ少なかれ、他人を踏み付け、なりふり構わず上をめざすことでのし上がってきた人々であり、裁判官本来のあるべき姿からは遠い行いをしてきた例が多いこと、第三に、彼らも最高裁判事になってからはそれなりに「よい判決」を書き、あるいは「体裁のいい意見」を書くかもしれないが(ことにB類型、D類型の人々)、彼らよりもその地位にふさわしい人々がいる場合も多く、また、その人たちが最高裁判事になっていたらもっとよい判決が下されたであろう可能性が高いことである。 私が接した最高裁判事の中で最も尊敬できたのは弁護士出身の前記大野正男氏だった。大野さんのことは今でも懐かしく思い出すし、可能ならもう一度会ってお話がしたいなとも思う。しかし、裁判官出身の最高裁判事で、わずかにでもそのような感情を抱かせる人物は稀有である。 日本を震撼させた衝撃の名著『絶望の裁判所』から10年。元エリート判事にして法学の権威として知られる瀬木比呂志氏の新作、『現代日本人の法意識』が刊行されます。 「同性婚は認められるべきか?」「共同親権は適切か?」「冤罪を生み続ける『人質司法』はこのままでよいのか?」「死刑制度は許されるのか?」 これら難問を解き明かす共通の「鍵」は、日本人が意識していない自らの「法意識」にあります。法と社会、理論と実務を知り尽くした瀬木氏が日本人の深層心理に迫ります。