最高裁判事の隠された”素顔”──表の顔と裏の顔を巧みに使い分ける権謀術数の策士たち
最高裁判決は民主的になってきている?
近年の最高裁判決は民主的になってきているという評価もある。しかし、私はそうは思わない。後に論じるとおり、社会が変化しているほど最高裁判例は変化しておらず、ことに統治と支配の根幹に触れるような事柄については微動だにしていないし、全体としてみても、せいぜい多少の微調整を行っているにすぎないというほうが正しいと考える。 また、そのわずかな変化も、実は、無数の裁判官たちの精神的死屍累々の上に築かれたものなのではないだろうか? なお、近年の最高裁判決は民主的になってきているという評価が出る原因について考えると、前記の各類型を問わず、かつてに比べると、表の顔と裏の顔の使い分けが巧みな人、どのようにふるまえば外部に対して受けがよいかがわかっている人、そして、機を見るに敏な人が増えていることが関係していると思う。「ようやく一番上まで昇り詰めたことでもあるから、今後は少し格好いい意見を書いたりそのような発言もして、一般受けをもねらい、できれば名声をも得たいものだ」といったところが、そういう人物たちの秘められた内心の声なのではないかと考える。なお、ここで、「一般受け」というのは、一般世間のみならず、法律家の世界、実務家の世界をもターゲットにしてのことである。 キャリアシステムが法曹一元制度に移行すれば、そこまではいかなくとも、少なくとも、真に最高裁判事にふさわしい人々が裁判官を含めどの分野からも選任されるようになれば、最高裁判決のみならず下級審判決も、その姿がもう少し変わっていくはずである。 しかし、日本の、ヒエラルキー一辺倒の官僚的キャリアシステムの下では、能力、人格、識見、広い視野とヴィジョン等のさまざまな面においてすぐれた人材はほとんど育たない。また、たとえそのような人物がいたとしても、そうした人物が最高裁判事になるのは、新約聖書の言葉を借りるならば、ラクダが針の穴を通るくらいに難しいことなのである。 日本を震撼させた衝撃の名著『絶望の裁判所』から10年。元エリート判事にして法学の権威として知られる瀬木比呂志氏の新作、『現代日本人の法意識』が刊行されます。 「同性婚は認められるべきか?」「共同親権は適切か?」「冤罪を生み続ける『人質司法』はこのままでよいのか?」「死刑制度は許されるのか?」 これら難問を解き明かす共通の「鍵」は、日本人が意識していない自らの「法意識」にあります。法と社会、理論と実務を知り尽くした瀬木氏が日本人の深層心理に迫ります。
瀬木 比呂志(明治大学教授・元裁判官)