27歳で突然、継いだ父の会社。「ゴミのような会社」と言われ愕然…〈売上3億円〉を目指すためにした“大きな決断”【売上22億円企業・代表取締役が解説】
“ゴミ会社の経営者認定”をされて…
父から事業を引き継いだ私は、その年のうちに北九州市にある青年会議所(JC)に入会しました。そこでの活動の一環で私はセミナー講師と出逢ったのです。 《この中で売上3億円以下・自己資本比率30%以下の会社の経営者は手を挙げてください。今、手を挙げている人はゴミのような会社の経営者です。早く会社を辞めたほうがいいです》 売上1億5,000万円がどのくらいのレベルかもわかっていないド素人経営者だった私はとりあえず言われるがままに手を挙げ、“ゴミ会社の経営者認定”をされました。読者によっては講師のこの発言を非常に失礼と感じるかもしれません。 ですが、当時の私はド素人だったがゆえに講師の言葉が突き刺さりました。愕然としながら「まずは売上3億円を目指そう」と素直に思ったものです。そして、売上1億5,000万円を3億円にする方法を考え始めました。 その1つが「日立式の経営スタイル(マネジメント方法)を九昭に持ち込もう」というものでした。日立電子システムサービスで工事の担当をしていたので、日立なりの工事管理のやり方を私は理解していました。工事管理書類関係など、日立のやり方をそのまま自社でやろうとしたのです。 経営スタイルをそれまでとがらりと変えようとしたのは、何も私が2代目として引き継ぎ、何かしらのアピールをしたかったからではありません。そうしなければいけない時代の変化があったからです。 そもそも北九州市は明治から続く工業都市で、日本の重厚長大を支えた大きな会社が山ほどあり、しかも父が創業した頃の1960年代は高度経済成長期と呼ばれる日本の経済が急速に成長した時代でした。最初の東京オリンピックの開催や東海道新幹線が開通したのもこの頃です。高いビルが建ち、鉄道などの交通網も整備され、日本の各所が都市化していきました。 さらに、工業も発展していきました。日本にマクドナルドがやってきたのもこの時代です。 つまり、私の父の世代は日本に勢いがある時代だったわけです。だからと言うわけではありませんが、当時の弊社の「お金」の計算はどんぶり勘定状態でした。工業地帯である北九州市の企業だった九昭はそれでも儲かったのです。 その後の1980年代にはバブル景気がありますが、それでも私が継いだ昭和年(1986年)頃にはその勢いも落ち着いていました。要するに、それまでのどんぶり勘定では立ち行かなくなりつつあったのです。 そんなタイミングでのバトンタッチでしたので、私は「やり方を変える必要がある」と考えたのです。
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