未完の遺作『神々の乱心』に描かれた新興宗教 清張はどう見ていたか?
政治や社会問題をはじめ、歴史などさまざまなテーマの小説を発表したきた松本清張は、新興宗教についてもその対象のひとつになりました。『神々の乱心』や『隠花平原』などをはじめとした清張作品の中では、新興宗教は信者の心の平穏を実現するものというよりも、私利私欲や快楽を求めるものとして描かれている。果たして清張は、新興宗教を単にいかがわしいものという印象を抱いていただけなのでしょうか? ノートルダム清心女子大学文学部教授の綾目広治さんが解説します。
松本清張の新興宗教観とは?
松本清張が病死したため未完の遺作となった長編小説『神々の乱心』(1990年3月-1992年5月)は、新興宗教団体を創る人間たちの話であり、最晩年において清張は新興宗教の問題を正面から取り上げる作品を書いたのであるが、それ以前からも清張は新興宗教に関心を持っていた。 たとえば、全集未収録の長編『隠花平原』(1967年1月~1968年3月)では、銀行の頭取が新興宗教団体「普陀洛教団」(ふたらくきょうだん)の幹部と組んで銀行の金を横領する犯罪にまつわる話が語られている。このように、利害の絡んだ犯罪に新興宗教団体が関わっている物語が書かれていることからわかるように、清張は新興宗教の団体にはいかがわしさがあると捉えていた。この物語の主人公である画家の山辺修二は、「新興宗教は金が儲かるという噂である。どうやら、この普陀洛教団も相当な金を持っているらしい」と思っているが、これはまた清張の認識でもあった。 この「普陀洛」というのは、教団の説明では本来は「補陀洛」と書くべきものを、読みづらいので「補」を「普」に改めたとされている。因みに言うならば、「補陀洛」は「補陀落」と書くのが普通であって、紀州の補陀落寺などの僧侶が、観音菩薩の住んでいるとされる補陀落浄土に行くために、小さな船に乗って南海の海に乗り出したという、実際にあった補陀落渡海の話が有名である。「普陀落教団」は、その観音浄土を日本の土地に実現しようとする宗教団体ということになっている。そして、そこに住めば、信者たちは「各自が土地を家とを持つことができ」、信者の「社会的な地位が進む」と、教団は説明する。 要するに、新興宗教団体の「普陀洛教団」が信者たちに約束するのは、来世の幸福でもなければ、魂の平安でもなく、露骨に現世利益的な事柄なのである。しかも、実際にその現世利益を一番享受するのは、一般の信徒ではなく教団の幹部たちであった、と小説では語られている。 清張の新興宗教観は、まずは以上のようなものであったと言える。つまり、新興宗教とは淫祠邪教(いんしじゃきょう)の類(たぐい)である、という判断である。