なぜ東大は男だらけなのか?漱石が描いた「男の世界」
『三四郎』に描かれる東大生の生活には女性が存在しないわけではない。しかしそこに登場する東大関係者の男性たちは誰ひとりとして女性とまともなコミュニケーションができていないし、しようともしない。 野々宮宗八や三四郎の友人の佐々木与次郎、第一高校(今日の東大教養学部)の教員である広田先生との交流は極めてホモソーシャルな男の世界である。 漱石の描いた東大はあくまで男の領域で、知性豊かな女性である美禰子やよし子がその一部となる余地はない。東大と東大生にとって、女性は異質な他者であった。 ● 三四郎池は本来ならば 「美禰子池」が適当ではないか 三四郎が美禰子と看護師に出会った池は、もともと加賀藩前田家の庭園である育徳園の一部で、「心字池」という名であった。 今日、ここは「三四郎池」として知られている。本郷キャンパスのほぼ中央に位置しており、高台から周囲を鬱蒼と囲む木々のあいだを降りていくと、静かな水面が現れる。 キャンパスが学生や観光客でいっぱいになる日でも、訪れる人はあまりいない。この池が三四郎池と呼ばれるようになったのがいつか明確ではないが、1946年の『帝国大学新聞』(現在の『東京大学新聞』)にはすでにその名称が使われていた(注2)。 注2 東京大学キャンパス計画室編『東京大学本郷キャンパス 140年の歴史をたどる』東京大学出版会、2018年、16頁
三四郎にとってこの池が特別な意味を持ったのは、そこに美禰子の姿があったからなのだから、ほんとうは「美禰子池」と呼ぶべきだろう。このような名前のつけ方にも男性中心のキャンパスとしての視点が表れている。 池のほとりに立つ案内表示には、「この池の正式名称は『育徳園心字池』なのだが、夏目漱石の小説『三四郎』以来、三四郎池の名で親しまれている」とあるだけで、美禰子への言及すらない。 そもそも東大のキャンパスには女性の名や功績を記憶するようなものは一切ない。 1998年に東大の総合研究博物館で開催された特別展「博士の肖像」のために木下直之らが行った調査によると、東大には戦前から多くの男性の像や肖像画が作られてきた。 各学部の研究室、会議室、廊下、倉庫などにあるものを含め、像主や作者が判明しているものだけでも、合計140以上の肖像画・肖像彫刻があることがわかっている。東大の教室内が男性の教員と学生の姿であふれていたのみならず、壁や廊下、庭にも男の顔が並んでいたことがわかる。 いささかふざけた話になるが、大正期の東大本部には巨大な雄鹿の頭部の剥製が飾られていた(これは今日、総合図書館の記念室に残されている)。 東洋の動物標本をイギリスに送った返礼として、1913年にイギリスのジョージ5世がウィンザーにある猟場で獲ったものが東大に寄贈されたという。剥製動物までオスだったのである。
矢口祐人