なぜ東大は男だらけなのか?漱石が描いた「男の世界」
● 三四郎より教養ある女性が 東大生にはなれなかった しかしこの小説では三四郎と美禰子の恋愛は成就しない。いや、ふたりのあいだではほとんど何も起こらない。やがて会話をする仲になるが、美禰子が三四郎の心を十分に理解しているのかも最後まではっきりとわからないし、三四郎も自分の気持ちを明確に整理できない。 そもそも三四郎は美禰子とはほとんどまともに喋ることができない。いつもその姿を探し、会う口実を考えているのに、実際に美禰子を前にすると、ぶっきらぼうな口しかきけない。自分の思っていることが言えない。 きれいな絵葉書をもらっても返事を書けないし、キャンパスから離れたところでふたりきりになるチャンスがあっても、気持ちをうまく表現することがまったくできない。 美禰子はウィットに富んでいて、英語もできるし、絵画の造詣もある。三四郎よりはるかに教養がある人物である。けれども当時の東大は男性以外の入学は許されないから彼女は東大生にはなれない。美禰子は兄が東大の卒業生で、その友人の野々宮宗八が東大の研究者をしているからキャンパスによく出入りしているものの、彼女自身は大学の部外者である。
三四郎は勉学をそっちのけで、この知性豊かな、美しい女性のことをずっと考えているが、結局、彼女のことはわからない。 美禰子の態度は「澄むとも濁るとも片付かない空の様な」ものだと思い、むしろそれに満足感すら覚える。けれどもときには「あの女から馬鹿にされている様でもある」と疑心暗鬼にもなってしまう。 そうこうするうちに、美禰子は結婚してしまう。それに対して三四郎が何を思うかは、彼自身もわからないようである。 ● 漱石が描写した東大は ホモソーシャルな男の世界 三四郎は他にも女性と出会うが、やはりまともな意思疎通はできない。 九州から東京に向かう途中の列車で会った若い女性とは、旅館で一晩ともに夜を明かすことになるが、布団の中央に自分で境界線を作り、彼女に触れることもないどころか、名前を聞くことすらしない。 美禰子とともに頻繁にキャンパスなどで会う、野々宮宗八の妹よし子のこともよく理解ができない。よし子と話しながら「東京の女学生は決して馬鹿に出来ないものだと云う事を悟った」のに、対等な会話をするわけでもない。