「天皇制を倒さないといかん」と共産党入りし、「3番目ぐらいの新聞に行ったほうが早くトップに」と読売新聞に…98歳まで現役だった渡辺恒雄の「一貫した行動原理」とは
ナベツネが死んだ。読売新聞グループ本社代表取締役主筆の渡辺恒雄氏である。98歳になっても存在感を示していたから「衝撃」ニュースでもあった。では読売新聞はどう報じたか。死去翌日の12月20日朝刊を見てみよう。 【画像】VIP席からオレンジ色のタオルを振り回し巨人の優勝を喜ぶ渡辺恒雄氏を見る 『渡辺恒雄氏死去 98歳 読売新聞主筆 現実路線 各界に影響力』(1面) 『戦後、言論界を牽引 主筆の責任、最後まで』(総合2面) 『歴代首相と深い親交 与野党に幅広く』(政治面4面) 『米中韓要人と交流』(国際面9面) 『球界発展 情熱注ぐ 歴代G監督と本音議論』(スポーツ面19面) 『スポーツ・活字振興 尽力』(社会面30面)
渡辺恒雄氏が“ナベツネ”になった瞬間
いかがだろう、功績を伝えるこのボリューム。Xデーに備えて周到な準備をしてきたのかもしれない。この日の紙面を見るだけでも、読売にとって一国の指導者かあるいはそれ以上の存在であったことがうかがえる。「各界の関係者からは、その功績をしのび、別れを悼む声が相次いだ」(社会面)なんて、まさしく“偉大なる指導者”の死を伝える紙面だ。 ナベツネってなんであんなに偉そうなのか、いや、偉いのか? 「たかが新聞記者」がなぜ政界にも影響力を与える存在になったのか。 原点は大学時代だった。太平洋戦争を体験したナベツネは戦後、日本共産党へ入党した。その理由を、「戦争中、『天皇陛下のために死ね』とか、『天皇陛下万歳』とか、日常茶飯事のようにやらされていた。二等兵で引っ張られて、あの地獄のような軍隊へ行った。それというのも、とにかく天皇制、全体主義が悪いからだ。だから戦争が終わって生き残ったら、天皇制を倒さないといかんと真面目に考えていた」と語っている(「独占告白 渡辺恒雄 戦後政治はこうして作られた」安井浩一郎・新潮社)。 天皇制打倒を考えていたナベツネ。戦争と軍隊への嫌悪から共産党に入ったが、組織の規律や統制を重んじる党に反発して脱党。読売新聞に入社する。その頃の読売は関東のブロック紙で全国紙の朝日新聞や毎日新聞に及ばなかった。なぜナベツネは読売を選んだのか?