井上尚弥に憧れ鳴り物入りのプロデビュー「モンスター2世」坂井優太の少年時代
【父親との二人三脚で地道に成長】 スタイルの原点は、ランドセルを背負っていた少年時代にある。「もともと自分は臆病。人一倍、ビビりなんですよ。パンチをもらいたくなかったんです」と冗談まじりに笑う。アマチュアエリートの肩書を持つ男に「臆病」という言葉は似合わないが、本人は首を大きく横に振りながら「幼い時はボクシングなんてする性格じゃなかったので」としみじみ話す。 小学1年生の頃は学校でいじめられ、嫌な思いを抱えたまま帰宅することもあった。何でも許してしまうお人好しの性格が影響したのかもしれない。ある日、父親にいじめられっ子がボクシングで強くなっていくアニメの『はじめの一歩』を勧められると、幼いながらに心を打たれた。すぐにグローブを懇願し、一緒にミットを購入した父親にパンチを受けてもらうようになった。 「人間的に強くなりたかったんです。ボクシングを始めて、すごく変わりましたよ。いじめられることもなくなりましたしね。でも、次はボクシングで『あいつは弱い』と言われるようになって......。勝ち負けの世界なので誰が強くて、弱いかがはっきりしますから」 コーチ役の父親と二人三脚で始めたボクシング。小中学生の頃は思うように結果を残せず、悔しさを味わうことのほうが多かった。ミットを持つ父は社会人野球の経験はあっても、格闘技はまったくの未経験。息子とともにイチから勉強して学んでいったようだ。 「最初はお互いに素人。見よう見まねでやっていました。もちろん、父は大人なので考える力もあり、成長速度も速かったです。学んだことを僕にいろいろと教えてくれ、それを僕が実践していく感じでしたね」 父親はエステ関連の経営と整体師の仕事をしながら、時間を惜しまずに練習に付き合ってくれた。朝6時からロードワークをこなし、仕事終えたあとも夜の22時から近所の公園でトレーニングに励んだ。雨が降れば、整体院のなかでパンチを打っていた。目に見える成果が出るまでに時間はかかったものの、中学2年生の冬にずっと勝てなかった相手を負かし、やっと自信が芽生えた。 「打たせずに打つ」というスタイルが確立されてきたのは中学3年生の頃。しかし、手応えをつかみつつあった15歳の名前が、全国に轟くことはなかった。2020年当時はコロナウイルスが世界で猛威をふるい、日本のボクシング界にも暗い影を落としていた。国内の大会はことごとく中止。坂井はコロナ禍の自粛期間中のことを、いまでもよく覚えている。 「父とふたりでマス(寸止め)ボクシングをしていたのは印象に残っています。父はうまくて、中学生までは僕もやられていました。スイッチ(左右のスタンスを替える動き)もできて、相手の得意なパンチを研究し、『こういう攻め方をしてくるから』と教えてくれることもありましたね」 コロナ禍のなかでも練習は積み重ねていたが、目立った実績を残していない中学3年生に名門高校から特待生の誘いはなかった。進学先に選んだのは私立の強豪ではなく、兵庫県内でボクシング部を持っている公立の西宮香風高校。前身は市立西宮西高校。ボクシング部には歴史があり、ノンフィクション作家の後藤正治さんが書いた作品『リターンマッチ』の舞台になったことでも知られている。坂井家にとっては経済的な事情に加え、小中学校から練習に参加させてもらった縁もあったという。 何より父親を安心させたのは、勝負よりも『選手を無傷で親御さんに返す』というボクシング部の方針だった。高校入学後、『打たせず打つ』のスタイルにさらに磨きがかけることになる。まだこの時、坂井がアマチュアのエリート街道を突き進んで行くことを想像できた人はほとんどいなかった。 後編「坂井優太が覚悟 父と二人三脚で世界王者を目指す」につづく>> 【Profile】坂井優太(さかい・ゆうた)/2005年5月27日生まれ、兵庫県出身。身長173cm。幼少期から父・伸克さんの手ほどきを受けながら独学でボクシングを始め、西宮香風高に入学すると1年目から2年連続インターハイ制覇など高校6冠、2年時には世界ユース選手権優勝を果し、トップアマとしての地位を築く。大橋ジムからの誘いをきっかけに、プロ入りを決断。2024年6月25日に2回TKOでプロデビューを果たした。次戦は10月17日(木)、後楽園ホールにて「Lemino BOXING PHOENIX BATLLE 123」8回戦vs.対戦相手未定。
杉園昌之●取材・文 text by Sugizono Masayuki