【NHK大河】“吉原”という特殊な地域に生まれた「蔦屋重三郎」はいかにして「江戸のメディア王」にのし上がったのか
斬新な吉原タウンガイド
蔦重はデベロッパーでもあった。 彼は吉原で生まれている。数え8歳で父母が離縁、以降は引手茶屋を営む叔父に育てられた。蔦重の最初の書舗は吉原大門の近くにあった。 蔦重はホームグラウンドの吉原に新しい価値を付加しようと企てる。
蔦重はまずタウンガイド「吉原細見」のデザインを刷新、そこに充実した遊郭のデータを満載させ注目度を高めた。次いで、吉原のファッション性を大いに喧伝する。これに男客どころか娘たちが飛びついた。そこに住む女たちの身につけるものがトレンドとなり、吉原は歓楽街だけでなくスタイリッシュな情報発信基地として認知される。 現代のSNSの役割を出版物が担い、吉原の女たちはインフルエンサー役をあてがわれたわけだ。
ライトノベルの先駆け
蔦重の注力で江戸の出版物のコンセプトが大きく変貌した。 その代表例が挿絵を各ページ全面にレイアウトし文章を添えた草双紙だ。当初は赤本、黒本、青本などと呼ばれ、内容が浅薄なうえ、子ども向けのおとぎ話も少なくなかった。 そんな草双紙の世界観を根底から覆したのが安永4(1775)年刊行の『金々先生栄花夢〈きんきんせんせいえいがのゆめ〉』だった。作者の恋川春町〈こいかわはるまち〉は作品の随所に世相を反映させ、滑稽や諧謔、洒落をちりばめた。 本作は表紙の色から黄表紙と呼ばれ、大人が愉しめる娯楽として注目を集める。 黄表紙はマンガの原型とみることができるし、ライトノベルの始祖ともいえよう。 機をみるに敏な蔦重が黄表紙を放っておくわけがない。春町は狂歌壇の有力メンバーだった。蔦重は春町だけでなく、同じく狂歌グループに所属する朋誠堂喜三二〈ほうせいどうきさんじ〉、山東京伝らの戯作者、北尾重政やその弟子の政美(後の鍬形惠斎)といった絵師を取り込む。 蔦重の手掛けた黄表紙はナンセンスな笑いに包まれていながら、文と絵が高いレベルで拮抗し、政治批判や諷刺の毒が効いている。江戸の衆はこぞって耕書堂刊行の評判作を手にとった。 蔦重のアンテナは常に江戸の庶民へ向けられていた。