中田英寿の才能に期待も…「10番は簡単ではなかった」 伊記者が回想、セリエAで苦境に直面【現地発】
イタリア時代に取材歴のある現地記者を直撃
日本サッカー界はこれまで数々の名プレーヤーを輩出してきた。日本代表や欧州クラブで輝かしい実績を残した中田英寿氏はその1人。ワールドカップ3大会に出場したレジェンドは早くから世界に目を向け、21歳でイタリア1部セリエAへの挑戦を決断。その後、ワールドクラスの選手へと成長を遂げた。 【写真】「本当に46歳?」 レジェンド中田英寿、衰え感じさせない筋肉質なスマート体型 2006年夏に29歳で現役を引退した「孤高の天才」は、他者の目にどう映ったか。「FOOTBALL ZONE」ではイタリア時代に取材歴のある「トゥット・スポルト」紙のブルネッラ・チュッリーニ記者に改めて振り返ってもらった。 ◇ ◇ ◇ ――ヨーロッパでは多くの日本人選手がプレーしているが、中田英寿に抱く印象は? 「日本を代表する象徴的な選手。当時は日本代表の最も重要な選手の1人だった、ローマでは彼がスクデット獲得を可能にする決定弾を決めた。フィオレンティーナではプレーした期間は短かった。 中田がフィオレンティーナに移籍した2004-05シーズン、マリオ・チェッキゴーリ会長のフィオレンティーナは倒産後、セリエCからセリエAに昇格したばかりで複雑な時期だった。中田はデリケートな時期に入団したので、その影響を受けたと思う。 当時監督も変わったし、そのことは中田のためはならなかった。(リーグ戦で)20試合中14試合スタメンで出場も、ゴールを決めていない。ロベルト・バッジョなどファンタシスタの伝統を持つ最強リーグであるセリエAの中で、ナンバー10(10番)を身につけてプレーするのは簡単なことではなかったと思う。 中田は多くの才能を持っていたが、彼の持っている力を最大限に発揮できずにフィオレンティーナから出て行った。 ディエゴ・デッラ・バッレ会長は、サッカー面での目標がまずあったが、加えて日本への商業進出も狙っていた。中田の獲得は、セリエA復帰後のビッグプレーヤー獲得の1人だった。サポーターやファンの期待も大きかった」 当時日本人報道陣たちが何人も日本から来ていて、記者席は賑やかだったことも鮮やかな印象として残っている」